脳を守る漢方薬
東洋医学の流れ 前編

 西洋医学は16世紀に日本に入ってきました。まず16世紀の後半に、ポルトガル、スペインの医学が入ってきて、次にオランダ医学が入ってきました。これらの医学は、当時日本では、南蛮医学、紅毛医学と呼ばれ見下げられていました。ところが、18世紀の中頃からオランダ医学が中心となり、だんだん勢力をつけてきて、1774年に杉田玄白の『解体新書』という本が世の出る頃には、このオランダ医学が非常に強力になり、もう紅毛医学などと呼べなくなってしまい、オランダの医学ですから「蘭方」と呼びましょう。ということになり、それに対して、こんどは中国系の医学を「漢方」と呼ぶようになったのです。その中には「漢蘭方」と呼べるような、漢方と蘭方の中間のような医学もでてきました。その代表が「華岡青洲」ですが、彼は有名な全身麻酔で乳癌の手術を行った人ですが、麻酔に使った薬は漢方薬ですが、手術の手技は蘭方から学んだものでした。
 その後、医史学が発達して、漢方も中国だけのものではなく、インドや朝鮮、その他の諸国の医学が入りまじってできあがったものであることがわかり、さらに、わが国で国情に合うように発達してきて、すでに本家の中国を凌駕するくらい立派な医学となっていたのです。そこで、漢方では意味が狭すぎるということになり「東洋医学」という名前が生まれたといいます。それに対して、またヨーロッパ、アメリカ系の医学を「西洋医学」と呼ぶようになったといいます。
 漢方(東洋医学)と蘭方(西洋医学)の勢力関係は、18世紀末までは漢方の方が強かったのですが、19世紀の中頃に「種痘」が入ってきて、これが決定的な役割をはたし、次いで明治2年に明治政府が、当時最先端だった「ドイツ医学を範にとる」という決定をくだし、明治7年以降、段階的に東洋医学は法律的に葬られることになったのです。その後は、東洋医学を勉強しても医者にはなれないということになり、後継者が立たれるわけです。そして、今度は日本の医学は西洋医学だけになりますから、医学といえば西洋医学ということになり、特に鍼灸、漢方薬をいいたい時には、東洋医学、漢方ということになったわけです。
 そして、20世紀になり「東洋医学の復興」ということが行われました。まず1910年に、和田啓十郎という人が『医界之鉄槌(いかいのてつつい)』という本を著わしました。この人は済生学舎に学んで医師となった人ですが、「臨床医学として東洋医学は西洋医学よりすぐれている」ということを非常に強く訴えたのです。それに刺激されて東洋医学を勉強する人が日増しに増えてきて、昭和に入り、東洋医学界に2人の逸材が出現することになるのです。この2人は、三国志の水鏡先生の言う、臥龍か、鳳雛か、そのうち一人を得れば天下もにぎれる。まさに東洋医学界において、それほどの人たちなのです。
 その2人というのは誰かといいますと、まず、「漢方薬を使わせては天下一」の『大塚敬節』という人と「鍼灸を使わせては天下一」の『柳谷素霊』という人です。それと実は、もう一人偉い人がいて、その人は2つの博士号を持ち、この2人の天才の間に入った格好で「漢方薬と鍼灸どちらも使えなければいけない」と言った「矢数道明」という人です。
 その後、日本の東洋医学は、この偉い人たち3人をリーダーとして再び息を吹き返すことになり、昭和9年5月には日本漢方医学会が発会し、昭和12年4月には、拓殖大学に漢方医学講座が開講になり、さらに昭和25年1月には日本東洋医学会が発足するなど、すばらしい発展を見ることになるのです。そして、昭和31年4月20日には、戦後初めて西洋医学と四つに組んだ企画で「歩みよる東西医学」と題された、産経時事新聞社主催の座談会を開催するに至ったのです。(この座談会は、西洋医学側は4つの大学の教授で、阿部勝馬、田坂定孝、宮木高明、内山孝一という人たちが出席して、東洋医学側はこの3人のリーダーともう一人、京都鹿谷の細野史朗という人が出席してました)。

 私の祖父は、この柳谷素霊という人の友人でしたが、この人の生き方に惚れ、大変尊敬していたといいます。そして祖父は、この人から東洋思想と鍼灸技術を学んだのです。(なんでも、二人とも酒豪だったとかで妙に気が合ったらしく「桃園の誓い」ではないが、義兄弟の盃を交わし、心の兄(祖父は柳谷先生より3歳年下である)としていたそうです。)
 そして、祖父が東洋思想と鍼灸技術とを全て学び終えた日、柳谷素霊という人は、祖父に向かって、大山は後進の指導をするより「鍼灸の臨床家として、柳谷の鍼灸技術を磨くことを第一として精進してくれ!」と言い渡されたといいます。なんでも、この時、柳谷素霊という人は、日本にどんどん東洋医学、鍼灸というものを広めて、西洋医学を学んだ医師だけではなく、東洋医学を学んだ医師、すなわち「漢方医師」や「鍼灸医師」なるものを日本に作り上げなければならないと考えていたらしく、それには、今後、柳谷素霊自身が、教育の場や著作活動、講演会活動を精力的に推し進める以外に方法はないと考えていたらしく、鍼灸の臨床家としての活動を私の祖父に託したものと思われます。そして、西洋医師と東洋医師がその臨床の場を競う日が来た時は、その日には必ず行動を共にしようと誓い合ったといいます。(当時、柳谷先生と交わっていたのは、10指に満たなく、祖父の他に、井上恵理、戸部宗七朗、岡部素道がいる)

 そして、昭和32年4月、この理想を実現させるべく、柳谷素霊先生は、まず教育の場として、独自の思想のもと「東洋鍼灸専門学校」を創設して自ら校長になりました。
 また、同様に、もう一人のリーダーであります漢方薬の大塚敬節先生も、時を同じにして、日本漢方医学会創立時から親しかったT社の二代目社長と共に「中将湯診療所」を開設し自ら所長になりました。そしてT社二代目社長は同診療所の理事長に就任致しました。
 この2人のリーダーは「明治時代の東洋医学が、治療効果を証明する明確なデータを持っていなかったために西洋医学に敗れてしまった。」との苦い思いがお互いに強くあったので、時を同じくして、それぞれ、独自の研究施設を創り、東洋医学の効果を証明できる学術的なデータを集める準備にかかったのだと思われます。
 私の祖父は、この頃、希望を胸に託すと同時に、寸時の休む暇もなく、教育に、臨床に、著述に、そして講演活動にまで精を出す、柳谷先生のあまりの多忙さに、健康を害してはと心配で心配で仕方がなかったといいます。 そして、ある日、祖父の脳裏に一つの話が浮かび消えていったといいます。 それは、三国志の錦屏山の紫虚上人の話で、「左龍右鳳、飛んで西川に入る。鳳雛は地に墜ち、臥龍、天に昇る。一得一失、天数、まさに然るべし、宜しく正道に帰すべし、九泉に喪うこと勿れ、定業のがれ難し」。そして、まるで東洋医学の未来を暗示するような「落鳳坡の衝撃」が起こってしまったのです。
 翌年、昭和34年1月、医事日報が、今後の日本医学界を動かす人々として、東洋医学界のリーダー、漢方薬の大塚敬節先生を大々的に紹介したのです。 これは低迷していた東洋医学界にとって、まさに輝ける瞬間でした。しかし、その頃、もう一人のリーダー、鍼灸の柳谷素霊先生は、度重なる無理が崇り、とうとう病に倒れてしまったのです。そして翌日、2月20日に行ってしまったのです。享年54歳でした。
 この日から、祖父は何かを悟ったのか、東京での活動からは一切身を引き、柳谷先生の東洋鍼灸専門学校には、私の父を残し、自分は栃木県佐野市の治療院に引きこもり、柳谷素霊直伝の鍼灸の技を磨き、さらに己の技を磨くことに全霊を傾けたのです。
 その後、父も臨床研究過程を修了すると、真っすぐに祖父の元に帰り、こんどは下都賀群岩舟町に独自の診療所を設け、祖父と、ある時は技を競い、またある時は一緒に研究を重ねながら、祖父同様に己の鍼灸技術を磨くことに全霊をかけるのです。(父は東洋鍼灸専門学校の研究過程修了第一号である。同期に赤坂寿起、山下旬、中村万喜男がいる。)

東洋医学の流れ 後編

 その後、日本の東洋医学は、当然のごとく、漢方薬が主体となり、そのリーダーである大塚敬節博士を中心として目覚ましい発展をとげます。そして、その活動の集大成として昭和47年6月に北里研究所に東洋医学総合研究所が設置され、初代所長に大塚敬節博士が就任します。この北里東洋医学総合研究所は、その後、日本の東洋医学の中心的存在として大きな役割を果たして行きます。
 この頃、大塚敬節博士は、自分自身を日本医学会の代表として自覚し、漢方薬の復権に執念を燃やしていたといいます。また、日本最大の漢方薬メーカーであるT社の二代目社長も、自分自身を薬業界の代表として自覚し、漢方薬の復権に執念を燃やしていたいといいます。 当然のごとくこの2人は共鳴して活動を供にし、友好関係を深めていきました。さらに、この友達の和は、T社の二代目社長の大学の先輩で、当時、政界、財界にまでに絶対的な権力を持っていたといわれる日本医師会の『武見太郎』という、ものすごく偉い人を交えた3人の友達の和となり、その後の日本の東洋医学の発展に大きな力となって作用していくことになるわけです。
 さて、現在の日本の東洋医学は「漢方薬を使用する医学、漢方医学」が中心になっています。これは、日本の行政にも関係していますが、実際的には、漢方薬を製造販売するT社の力が大きく作用していると言っても過言ではありません。ですから、その後の日本の東洋医学を語るには、T社の存在を抜きには語れません。
 T社は、昭和35年頃からの入浴剤の爆発的なヒットにより得た資金で、漢方薬の研究所を作り漢方薬理学を推進し、また漢方診療所を作り漢方薬の臨床データを集め、さらにこの漢方診療所の門をくぐった難病の患者が、漢方医療により快方に向かってくるという、よい情報交換を行う「漢方愛好者の会」を作り、漢方医学普及のために全力を尽くしてきました。その努力と苦労が徐々に実り、漢方薬は次第にブームを呼び、昭和49年頃には、日本の社会にすっかり根を下ろしてきました。
 この背景には、西洋医学、新薬(化学合成医薬品)の副作用と毒性に対する失望と反省があると思います。
 その典型的な例が、昭和37年度の怖〜いお話ベスト1になってしまった「サリドマイド事件」です。そのお話の中心になっているのがサリドマイドという睡眠薬なのです。
 当時、サリドマイドは、副作用がもっとも少なく、しかも持続時間が一番長〜いという、チョー安心新薬として、昭和33年に西ドイツと日本で大々的に売り出されました。一般大衆も「よく眠れる!ぐっすり眠れる!それでもって副作用もなぁ〜い!」と言って安心して飲んでいたといいます。 ところが、それから4年後、西ドイツの小児科医のレンツ博士という人が「サリドマイドを飲んでいる女性が妊娠すると、アザラシのような腕のないベイビーが生まれる。」と学会で発表して大きな話題を呼びました。










漢方医学

51.11.7

漢方薬の基礎知識(1)
大塚 敬節  北里研究所付属東洋医学総合研究所/所長

 これから漢方薬の基礎知識という題でお話し申し上げます。
 漢方薬といわれているものは、植物と、動物と、鉱物を材料にしたものでありまして、現在では大部分が植物です。今から1400〜1500年くらい前には、鉱物を非常に多く使った時代がありましたが、それは長くは続かなかったのであります。

■修治という作業
 これらの動物、植物、鉱物はなるべく天然に近い性状のままで用いるというのが、漢方薬の建前になっております。しかし、天然のままそのままではいろいろ用いるのに不便なことがあったり、また副作用のあるものがありますから、簡単な修治という作業を行ないます。修治とは、たとえば漢方薬の大事なものに麻黄という薬物がありまして、「麻黄節を去る」と書いてあります。麻黄という薬物はエフェドリンの原料で、これにエフェドリンが含まれていることは皆さんご承知だと思いますが、麻黄は利尿作用と発汗作用があり、喘息にも使われますが、節の所と、節でない所とでは作用が反対になっています。それで節を除くのだということになっております。
 それから「附子ホウずる」ということがあります。附子とはトリカブトの根の母根(もとの根)に着いた子で、そのため附子と呼ばれるわけですが、これは毒薬というよりは、むしろ劇薬といった方がいいでしょうが、昔はこの附子を煮た汁を酒に加えて相手にのませて人を殺すというふうに毒殺に使われたり、アイヌが熊を射る時に矢の先につけて熊を殺すという、あの猛毒のアコニチンが含まれているのであります。ところがアコニチンは熱を加えると分解しますので、ホウずるということをやります。ホウずるというのは、和紙を濡らして附子を包んで熱灰の中に長く置いておきますと、附子の中のアコニチンが分解してきますが、その分解を狙ったもので、こうすると附子の中毒作用を防ぐ働きがあります。
 それから甘草は炙るということをします。炙るとはどういうことかと申しますと、甘草を炙りますと粘液質のものが減るわけです。甘草は非常に甘いので、人によっては胃にもたれるけれども、炙って粘液質を減らしますと、あっさりして胃にもたれなくなるということがあります。ところで甘草は喉の痛みなどに非常によく効くのですが、その時には粘液質が必要ですから、炙らないで使います。これはみな傷寒論に出てくるのですが、なかなか合理的なことを今から2000年も前の本に書いてあるわけです。
 蜀椒とは山椒の実ですが、これは汗を出すと書いてあります。汗を出すということは炙って油を出すということで、油を出すということは、新しい山椒の実は刺激が強すぎて副作用がありますので、少し油を減らそうというわけです。こういうようなものがたくさん出てきます。こういうのは本当に簡単な、自然の姿をそんなにひどく歪めたものではないわけです。漢方薬というものはこういうふうにして調製されたものであります。
 こうした漢方薬には種々雑多な成分が含まれております。昔は、有効成分だけ取り出したら、その有効成分がその漢方薬の成分であって、それがその漢方薬の作用を示すように考えられておりましたが、このごろは漢方薬の分析が進んできて、有効成分と思われているもののほかに、いろいろの微量の成分が含まれているということがわかるようになってきました。
 このように、結晶として取り出される有効成分のほかに、微量成分がたくさん含まれているということが漢方薬のひとつの特徴でありまして、そのために作用が非常に温和で、あとで述べるように数種の薬を組み合わせて処方として用いる時に、いろいろの成分が含まれておりますので、相手の薬の次第によって、その薬のある作用は非常に強化されて強くなり、またある作用は抑えつけられて弱くなるというように、相手次第でその薬の働きが違ってきます。場合によっては、その組み合わせ次第ではまるで反対の作用さえ起こるというようなことも出てくるわけです。
 たとえば今申しあげました麻黄ですが、麻黄は桂枝と一緒になると発汗作用がありますが、石膏と一緒になると汗をとめるという反対の作用になってくるというように、非常に面白い現象があります。
 その組み合わせの上手で巧妙なことは、漢方の薬物療法の最古の古典でありまして、また最高の古典でもある『傷寒雑病論』が第一等でありまして、これ以上の組み合わせの巧妙な処方が出てくる書物はありません。この『傷寒雑病論』は、後漢の末に著されたものですから、今から1700年ほど前のことですが、この本はそれより前のいろいろな治療法を集成してつくったものですから、実際はもっと古い経験の上に立っているわけであります。

■解析不明な成分
 私はよくお医者さん方から、「あなたの使っている漢方薬にはどういう成分があるのか、そしてその成分にはどういう薬理作用があるか」ということをよく聞かれるのですが、漢方薬ではまだよくわからないものがたくさんありまして、有効成分では説明のつかないような働きがあるわけです。それは微量成分と有効成分といろいろ総合して出てくる薬効ですから、わかっている有効成分だけで云々するということはちょっと問題があると思います。
 ところで、この有効成分だけを取り出した、たとえば麻黄からエフェドリンだけを取り出して、さらにそのエフェドリンと同じ化学構造のあるものを合成して作ったものをのむ場合と、麻黄そのものを煎じて飲む場合、その両方にエフェドリンが含まれているわけですが、漢方薬を煎じたのんだ場合には見られないような副作用が、合成したエフェドリンには出てくるということが多いのであります。このように考えてきますと、漢方薬に含まれている微量成分というものは、昔は不純物として捨て去られていましたけれども、実は不純物ではなくして、むしろ重要な成分であるということがだんだんわかってきとのであります。
 たとえば根葛は有効成分が澱粉です。そこでひどいことをいう人は、葛根が澱粉ならじゃがいもでもいいだろうという暴論を吐く人もありました。それはそれまではっきりしたことがわかっていなかったからそうでしたが、戦後になって東京大学薬学部生薬学教授の柴田先生たちが、葛根の中からいくつもの微量成分を検出しまして、その中に筋肉の緊張を緩和する作用のある微量成分のあることがわかってきたのであります。そうしますと、そこで初めて葛根湯が肩のこり、筋肉の緊張をとく働きのあることと結びついてくるわけです。澱粉ではどうしても肩のこりをとるという説明はつかなかったのでありますが、この微量成分がわかってむると、なるほど葛根は肩こりに使ったり、腰の痛みに使ったり、筋肉の緊張をやわらげる働きがあるということがやっと証明されたわけでもあります。漢方薬にはまだまだわからないことがいっぱいありますので、どうも成分でものをいう時期にはなっていないのであります。
 漢方薬は産地によって、また採集の時期によって、あるいはその保存状態によって品質に上下が出てきます。そのため規格を定めることが非常にむずかしく、また類似品(にせもの)があります。それからまた本物とまぎらわしいために、にせものが横行しているということがありました、これが漢方薬を使う場合の大事なことになるわけです。たとえばオオツヅラフジの根を漢防已といいまして、これは鎮痛作用もあるし、利尿作用もあるし、心臓病にもよく使う薬ですが、これがアオツヅラフジの幹が漢防已として市場に出まわることがあって、木防已、すなわちアオツヅラフジとオオツヅラフジとでは植物が違いまして、成分が違いますから、作用がうまく出てきません。そういうにせものがあるということであります。それから細辛というウスバサイシンの根が土細辛というカンアオイの根にまぜこまれて売られていることがありますが、これも作用が違ってきます。また滑石というのがありまして、これは尿道のあたりの刺激をなくして尿を円滑に出す作用があります。漢方では、たとえば淋疾のようなものでなくても、小便が淋瀝する病気は全部淋といいまして、尿道炎でも膀胱炎でも、あるいは膀胱結石でも淋になるのですが、滑石はそういう場合の治療に非常に大事な薬物であります。これは鉱物ですが、淋には日本薬局方の滑石は効きません。日本薬局方の滑石はタルクであって、われわれが使うのは唐滑石で、薬が違うわけであります。ですから同じ名前で呼ばれていても、いろいろ問題があるということです。また、柴胡というのは漢方で一番大事な薬物ですが、これなどは産地によって成分が非常に違ってくるというような問題もあります。
 それから漢方薬は、ものによっては非常に虫のつきやすいものやカビの生えやすいものがありまして、したがって保存状態が悪かったり、また長く貯蔵しすぎたものは効力が少なくなるということがあります。これは保存の問題が大事であるということであります。

■漢方薬のよし悪しの見分け方
 ところで、漢方薬のよい悪いはどうして見分けるかということになりますが、漢方薬は刻まないでそのままで見るとよし悪しが非常によくわかるのでありまして、私たちは開業した当時は自分で刻んだものです。自分で刻むとその薬に親しみがわいて、その薬のよし悪しがよくわかったものです。そのようにして慣れてきますと、一目見てにせものが、よい悪いかもだんだんわかってくるわけであります。ところが丸薬にしたり、エキス剤にしたりしますと、どういう材料を用いたかということの区別がむずかしくなってきます。というのは、成分がよくわかっておりませんので、分析してみたところで、分析の結果によって、いい薬を使ってあるとか、悪い薬を使ってあるとかということがはっきりしません。場合によっては入れなくてはいけない薬を入れなくても、それを入れなかったという証明ができないというようなことも出てきます。したがって丸薬やエキス剤は分析してみたところであまり信用はできません。そうなれば、結局製剤を担当している会社を信用するか、あるいは実際に用いて効いたからあれはよかったというようなことによって、会社の薬は信用できるというようなことになるわけであります。
 私たちが日常用いている薬物は250〜300種類くらいのものでありますが、その80%近くが国外、とくに中国からの輸入品であります。ところが今年は日本への輸入がひどく制限されましたために、品物によっては5倍〜10倍の値段になったものもあります。中にはだんだん入手ができなくなったものもあります。そこで問題は、いつまでも国外依存では漢方の行く先が心細いのではないか、日本で自給自足の体制を整える必要があるだろう、北海道から沖縄まで、寒い所から暖かいところまでの気候を利用すれば、漢方薬の栽培は必ずしもできないことはないのではないかという気運がだんだん高まってまいりまして、私もことあるごとにこれを強調しておりますが、今まで日本で栽培が困難だとされておりましてものの、すでに試作に成功したものも若干ありまして、今後の見通しは明るくなってきました。そこで、このような重大な仕事を民間にまかせきりにせずに、政府が積極的にこの指導とか援助に力をかさなければならないのではないかと私は考えております。
 戦争中から戦後にかけて、中国からの漢薬の輸入がほとんどなくなりまして非常に困りました。その当時、日本にあるもので間に合わせようということで、私は民間薬を研究しましたが、また一方で、お百姓さんに頼んで漢方薬を栽培してもらったことがあります。そしてできあがっていよいよ売るという段階になりますと、中国からきたものが安くて、日本のものが高いということになって売れなくなりまして、お百姓さんに非常に迷惑をかけたことがあります。ですから、これは政府の力によって、むこうのものには税金をかけるとか、政府が経済的な援助をしなければ、今後はできないのではないかと思うわけであります。これは今、北里研究所でも北海道で栽培を計画しておりますが、こういう仕事をする人がまだあまりありませんので、今後の重要な問題の一つであります。


漢方薬の基礎知識(2)
 大塚 敬節   北里研究所付属東洋医学総合研究所/所長

■漢方薬と民間薬の違い
 前回に引き続きまして漢方薬の基礎知識ということでお話をいたします。
 漢方薬と民間薬というのがありまして、よく「げんのしょうこを飲んでおります」、「どくだみを飲んでおります」といわれまして、そして患者さんはそれが漢方薬であると思っているようです。中には「便秘をするからセンナを飲んでおります」という患者さんもあります。しかしセンナというのは西洋の生薬で、漢方薬ではありません。ところが漢方薬と日本の民間薬は、材料的に区別することは非常に困難でありまして、漢方薬として私たちが用いているものを、民間薬として素人が用いているものもずいぶんあります。また逆に、民間薬として素人が用いていたものを、私たちが漢方薬として取りあげる場合もあります。したがって、漢方薬も民間薬を母体にしてだんだん発達してきたものでありますから、その使用法によって両者は区別されます。
 たとえて申しますと、自然食の店へゆきますと人参茶というのを売っております。朝鮮人参を材料にした顆粒状のものやエキス剤があり、これは元気が出ますとか、不老長寿の効があるとかと効能をいって売っております。丈夫になりたかったらとうですかなどといって私にもすすめてくれました。それで「私は丈夫だからいいです。どうもありがとう」といって笑って帰ってきたのですが、こうなりますと朝鮮人参はもとは漢方薬であっても、ただ丈夫になりたいというのでお茶として飲むなら、これは民間薬として用いることになるわけです。どくだみは民間薬として非常にすぐれたものであり、これは生のものと乾燥したものとでは働きがまるで違うという、非常に面白い作用を持っておりますが、ここで詳しいことを申し上げる時間はありません。しかし私たちはこれを漢方薬の中に取り入れて、漢方の薬と一緒に処方として用いております。
 漢方ではどくだみを魚腥草という名で呼びます。これに甘草を加えて、漢方で心不全などによく使う木防已湯という処方に加えて狭心症の患者にやりますと、狭心症の発作が起こらなくなったり、非常によくなります。そうして見ますと、どくだみも漢方薬となるということになります。ただ、どくだみをお茶代わりにして飲むというのでは、これはやはり民間薬ということです。したがって民間薬と漢方薬との違いは、漢方薬は漢方流の診断によってほかの薬と組み合わせて処方として用いる、民間薬は素人判断で民間伝承薬として用いる、ということによって区別ができるわけであります。

■漢方薬の性質による分類法
 漢方薬は、その性質によって温、熱、寒、冷(凉)、平の五つに分けております。温は体を温めて新陳代謝を促進する作用のある薬物をいうのであります。たとえば桂枝ですが、これが肉桂ににたもので、南支那から印度支那あたりに生産するものであります。これは味がちょっと辛く、辛温と書いてありまして、こういうものが温薬です。それから五味子、細辛も温薬であります。大体温薬は刺激性がありまして、口に入れるとピリッとする揮発分の含まれているものが多いわけです。それから朮というのはオケラの根ですが、これは苦くて温ということになっております。そうしますと温薬というのは、冷え症であるとか、胃腸の働きが弱いとか、要するに新陳代謝が衰えている場合に、それを奮い起こすという目的で用いるわけではありますが、もちろんこれだけ用いるのではなくて、ほかの薬物と組み合わせて使うわけであります。
 熱薬ということになりますと、さらに温の程度の高いもので、温める程度も強く、新陳代謝を亢進させる力も強い薬物であります。これは附子(トリカブト)が代表的な薬物になっております。これは非常に冷えて、危篤の状態で脈などもやっと触れるような患者を目標に附子を用いることになっております。
 寒と冷は消炎、鎮静というような作用があるものがだいぶぶんでありまして、たとえば石膏があります。石膏細工の石膏は無水ですが、漢方で使う石膏は、天然の含水硫酸カルシウムでありますから、これは熱の非常に高い場合とか、非常に興奮して騒ぐ場合とか、あるいは湿疹などでひどく体が痒いとか、要するにすべて炎症でも興奮でも、こらえられないくらい激しい状態を目標にして使う薬物でありまして、昔から附子と石膏を上手に使えば名医であるといいますが、これは温める方と冷やす方の両極端の薬ですから、それを上手に使えばたしかに名医であると思います。それから地黄という、血をふやし、体にうるおいをつけたりする一種の強壮剤ですが、これもやはり冷薬に入っております。黄連は、非常に苦いもので苦味健胃剤として使われることがよくありますが、これが沈静、消炎の作用があります。
 それから平というのは寒、熱、冷どちらにも片寄らない中立の薬物で、これには甘草、大棗(なつめの実)、茯苓(松を切った根の中に出てくる一種のきのこで、マツホドという)、阿膠(馬、ロバなどの皮からとったニカワ)、葛根、木通(あけび)などは平になっております。これらのものをうまく組み合わせることによって漢方の処方ができるわけであります。

■処方に名前があるのは漢方のみ
 漢方薬の処方は漢方と呼ばれておりますが、ここでは処方という名前で呼ぶことにいたします。西洋の薬は処方に名前はありません。医者が勝手にバラバラに用いておりまして、飲ませる薬を組み合わせて名前をつけるということがありません。ところが漢方の処方は、君、臣、佐、使というように分けて薬を組み合わせるわけです。これは中国の医学というのは非常に政治的な色彩が濃厚で、処方にもこのような名前がついておりまして、そういうような組み合わせによって処方をつくります。
 たとえば葛根湯という処方を例にとってみますと、葛根湯というから葛根だけ入っていると思う方がありますが、そうではなくて、葛根湯では葛根が君薬です。一番分量が多くて大事ないわゆる君薬です。それから麻黄と桂枝が臣薬です。そして生姜、甘草、芍薬の根が佐薬です。それからなつめの実の大棗が使薬となって組み合わせができておりまして、それによって葛根湯の働きがどのようになるか決まってるわけです。このように処方に固有名詞で名前がついているということは、世界中で漢方薬の処方以外にはないのではないかと思います。
 その処方の名前も非常に面白いもので、たとえば葛根湯、桂枝湯、麻黄湯、呉茱萸湯というような名前は、これは処方の中の一番重要な薬物をとって名にしてあります。たとえば葛根湯は葛根が一番大事で君薬、桂枝湯は、桂枝、麻黄湯は麻黄、呉茱萸湯は呉茱萸が一番大事というふうに君薬の名を処方の名前にしたものがあります。また中には処方の中の割合大事なもの2味をとって処方の名にしたものもあります。たとえば当帰芍薬散です。これは婦人病の薬として有名で、当帰芍薬散、桂枝茯苓丸といえば婦人病の薬であるとピンとくるほど大事で、生理不順とか冷え性だとかいう時によく使う薬であります。当帰芍薬散といっても、当帰、川きゅう、芍薬、茯苓、朮、沢瀉、とが入っておりまして、そのうちの当帰と芍薬をとってあります。桂枝茯苓丸は桂枝、茯苓、桃仁、牡丹皮、芍薬とが入っておりますが、桂枝と茯苓をとって名づけております。それから防已黄耆湯というのは、防已と黄耆がこの処方の一番中心になるからこの名前がついています。きゅう帰膠艾湯は止血薬で、非常に面白い薬効のあるもので、これは川きゅうと、当帰と、先ほどの阿膠(にかわ)とよもぎの葉とが入っておりまして、このような名前のものもあります。
 また簡単な組み合わせの処方になりますと、人参湯などは四つ入っておりますが、人参が主でありますので人参湯となっております。二つくらいのものは二つの名前だけあげてありますが、四つくらいの薬になってきても四つ全部の名前があげてあるのもあります。たとえば麻黄と杏仁(あんずの種子)、甘草、石膏で麻杏甘石湯といいまして、喘息とか喘息性気管支炎によく使われる面白い処方のものでもあります。漢方薬の面白いところは、この麻杏甘石湯が喘息や気管支炎の薬ばかりかと思っていますと、これは痔核の痛みにこれをのむと止まるということです。なぜ痔核の痛みに喘息の薬が効くのかといわれても私には説明ができませんが、使えば効くという、こういう問題が漢方薬にはあります。
 甘麦大棗湯とは、甘草と小麦となつめですが、これはヒステリーの大発作に使って非常によく、また舞踏病の患者によく効きまして、これは甘草、小麦、なつめですから薬らしくなく、まるで食べ物のようなものですが、その効果は大変なものです。桂枝甘草湯は桂枝と甘草が入っており、動悸が非常にはげしい時によく使います。芍薬甘草湯は芍薬と甘草で鎮痛薬であり、はげしい胆のう結石の痛みなどで、こらえられないような時に頓服としてのませますと痛みがとれるという、非常に面白い働きのある薬物です。
 そのほかいろいろありますが、中には入っている薬の数、たとえば薬が八つ入っているから八味丸といい、四つ薬が入っているので四物湯、四君子湯というような名前がつき、あるいは六つはいっているので六君子湯という名前がつくというように、構成されている薬物の数をとって名としたものもあります。また面白いものに、処方の名前を見ると、その薬がどのように効くかということがわかるものがあります。これは中国の人たちの知恵であり、たとえば続命湯というのがあります。命を続ける湯とはどういうことかといいますと、脳出血とか脳硬化症で半身不随や言語障害などをおこしているものにこの続命湯を使いますと、そういう症状がだんだん軽くなってきまして、生き延びるというのでこの名前がついています。
 十全大補湯とは、10種類の強壮剤を組み合わせてありまして、病後などで気力、体力ともに衰えた折に用いると体力、気力ともについてきます。
 先に申しました八味丸は腎気丸ともいいまして、昔の腎というのは泌尿、生殖器全部をひっくるめて腎といいます。したがって腎の機能を強化するのが腎気丸、いわゆるこのごろの八味丸です。これは老化を予防する治療薬として有名ですが、このように漢方の方の腎が腎臓だけではなくて、泌尿、生殖器の方までも含めていうので、応用範囲の非常に広い、面白い薬効のある処方であります。
 補中益気湯というのがあります。中とは内臓、とくに消化器を指しております。したがって消化器の働きを補って気を益す、すなわち元気をつけるのです。胃腸の働きを丈夫にして元気をつける補中益気湯というわけです。
 なかには立効散、立ちどころに効く散というので、これは本当に口に入れたらパッと歯の痛みのとまるという実に不思議な働きがあります。立効散のなかには先ほど申しましたウスバサイシンの根が入っておりまして、ウスバサイシンには局所麻酔の作用があるようです。このようなことは書いてはありませんが、私の考えではそのように思います。したがって、飲まなくても、口に入れただけで歯の痛みがとまるわけです。
 こういう面白い名前のついたものがたくさんあり、処方を見ただけで、この薬がどういう場合に使うかということがわかるということはありがたいことでありまして、漢方を勉強する上においていろいろ役立つと思います。今日はこんなところで一応終わりにしたいと思います。



漢方医学の流れ(1)中国編
 大塚 恭男  北里研究所付属東洋医学総合研究所/所長

 漢方とは、中国医学の影響のもとに日本で発達した医学であります。したがって漢方を理解するためには、中国本土における伝承医学の歴史を知ることが不可欠であります。そこで本日は中国本土における伝統薬の歴史を簡単に述べてみたいと思います。

■中国医学の原形時代
 私どもが承知しております最古の文献と申しますと、医学の文献としては紀元前二世紀くらいまでですが、もちろんそれ以前の医学以外のいろいろな本に、中国の医学や薬のことが断片的に出てきます。たとえば『山海経』という本には非常に古い形の中国医学が出ております。その時代の治療法を見てみますと、薬を飲むということのほかに、薬を体につけるということがかなり行われたようであります。今日、私どもが薬をのむことを内服と申しておりますが、服といのは元来洋服の服であり、身につけるということであります。『山海経』のころは、服という言葉は身につけることをいっておりまして、今の内服の意味には食するという言葉を使っております。
 中国医学のバックボーンをなしております陰陽五行説は非常に古くからありまして、紀元前1400年、あるいは1500年という時代の、一番古い文献であります甲骨文の中にもその萠芽が見られるのでありまして、特に孔子のあたりからは、陰陽あるいは五行という考えは非常にたくさんの文献に見られるのであります。そして、孔子の時代に近いころに扁鵠という名医が出たということでして、扁鵠の記録が『史記』という本に伝わっておりますが、その中に今の中国医学の原形というものが見られるのであります。そらから扁鵠は非常に面白いことをいっております。それは、そのころはおまじないをする巫女がおり、病気を治すには、巫女に頼るか、医者に頼るかしなければいけないことになっていました。そして扁鵠のいった言葉として、「巫女を信じて医者を信じないものは病気は治らない」というようなことが書いてあります。
 中国の非常に広い版図を統一した秦の始皇帝は、ご承知のように本を焼いてしまったのですが、医書は残されたということで、そのころから中国医学は非常に進歩してきます。とくに秦に続く前漢の王朝の時代には、中国医学の最古の古典であります『黄帝内経』という本が書かれました。これは現存する中国医学の最古の古典であります。著者はわかりませんが、書かれたのはおそらく前漢期であったろうと思われます。この中に中国医学の基礎理論、生理、個人衛生といったものが書かれており、さらに鍼灸療法について、経路であるとか、鍼灸の基礎理論、あるいは実践の方法などが克明に述べられております。ただし薬物療法についてはほとんど触れられておりませんで、ただ断片的に述べられているにとどまっております。この本が、中国医学のもっとも古い大事な古典で、現在でも中国医学を研究するものにとりましては必読の書となっております。この『黄帝内経』は『素問』と『霊枢』という二つのパートからできておりますが、特に『素問』の方には基礎医学的なことが多く、『霊枢』の方には鍼灸のpracticalなことが書かれているわけであります。
 前漢に続く王朝として、後漢という、紀元 1世紀、2世紀に相当する時代がありますが、おろそらくこのころに書かれたと思われるものに『神農本草経』という本があります。神農というのは黄帝と同じように伝説上の中国の古い帝王ですが、農業と医薬の神様であるというようにいわれております。中国では薬物学のことを本草と呼んでおります。この『神農本草経』には365の薬物を記載してあります。その分類法が非常に独特でありまして、上薬、中薬、下薬という分類法をとっております。上薬というのは120種で、これは命を養うというもので、不老長寿のような役割を果たすものであります。中薬というのは、性を養うもので、これはまだ病気になっていない人に活力をつける、くだいていえば強壮、強精のようなものに近いものではなかったかと思いますが、これが120種であります。実際に病気になった人が使う薬は下薬でありまして、これが125品であります。こういう分類法は世界の歴史で中国がただ一つであると思います。西洋の古い薬物書を見ますと、博物学的な分類法をとっており、動物、鉱物、植物という分類であります。中国の場合は、最初から薬物の人体に対する影響による分類をとっております。西洋の方が、いってみれば自然科学的な分類をとり、中国の方は人間中心的な分類法をとっているのも、中国医学の特徴を示すものではないかと思うわけであります。ともかくも、そのころに薬物学というものの原形ができたということがいえると思います。
 それから紀元200年頃、今の湖南省の長沙というところの太守をしておりました張仲景という人が『傷寒雑病論』という本を著わしました。これは現在では『傷寒論』と『金匱要略』という二つの本に分かれておりますが、傷寒というのは、寒気に破られたという状態で、一種の急性熱性伝染病でありますが、『傷寒論』はその経過を最初から終わりまであらゆる角度から克明に追跡し、その治療を述べたという。非常にユニークな本であります。『金匱要略』の方は、傷寒以外のいろいろな病気、たとえば黄疸、喘息、あるいは関節が痛むとか、疾病別の分類をとって、その治療を述べている本であります。この両書とも、今でももっとも大事な古典になっており、西洋の方の古典が歴史的な意味しかないのと違いまして、中国の方の古典はいまだに実用書であるという点が非常に特徴的であります。この本ができたのが200年頃ですから、したがって西暦200年ころまでには、中国医学はほぼその原形が確立されたということがいえると思います。
 これに続いて、三国、六朝という時代がきます。それが6世紀の末、581年に隋という王朝に統一されるわけですが、この三国六朝時代というのは、中国の文化が、初めて異国文化の非常に濃厚な洗礼を受けた時代であります。異国と申しましても特にインドで、インドの文化が西域を通って中国に入ってきまして、医学の面でもインド医学の影響が随所に見られるのであります。理論の方でもそうですし、薬物の方でも、今まで中国に産しなかったようなものがずいぶん使われるようになるということであります。それから同時にこのころから錬金術が非常に発達してきます。錬金術というのは今のchemistryの原形のようなものです。したがって鉱物性の薬物が好んで使われます。特に水銀とか砒素のようなものが非常によく使われた時代であります。水銀の利尿剤は、中国では5世紀ごろにもうすでにできており、これは西洋に先立つこと1,000年くらいという、非常に古い大きな業績でありますが、水銀や砒素は、ご承知のように非常に毒性が強いので、この毒性もすでに当時問題にされております。たとえば隋のころに出た巣元方という人の『諸病源候論』という本によりますと、水銀をのんでいて歯肉が腫れたら、もう水銀を使ってはいけないというようなことまで書いてあります。
 隋は短い王朝でしたが、それに続いて唐という300年余の大王朝があり、この唐という時代は、中国の文化が爛熟をきわめた時代でありまして、医学の方でも非常に大事な著作が出ております。中でも孫思ばくという人の書いた『千金要方』、その続編であります『千金翼方』、それから王Zという人の書いた『外台秘要方』、というものは非常に大事な古典であり、両方とも医学全書のような体裁をとっており、当時の医学を網羅したという感じであります。医学理論、それから鍼灸、薬物療法の一切が書いてあります孫思ばくの『千金要方』などは医の倫理にも触れており、非常に注目されております。薬物書の方でも唐の時代には『新修本草』という大きな薬物書が著わされるというわけでありまして、この時代には中国医学が非常な発展を遂げたということであります。
 唐の次は五代という短い時代がありまして、それから宋という、これもまた大きい王朝に移るわけです。宋は真中で二つにわかれます。前半が北宋で、途中で北半分(北シナ)が異民族にとられて金という王朝ができ、宋の王室は南に逃れて南宋になります。北宋の時代には、中国全土を宋が持っていたわけですが、南宋になりますと、中国人の王朝は南半分で、北半分は金という異民族の王朝で、金はやがて元に引きつがれます。元は元寇でご承知の大王朝ですが、元はやがて南宋を亡ぼし、中国を統一するのでありまして、この金、元の時代に中国医学は非常に大きな変化を遂げるわけであります。


■中国医学確立の時代
 どのような変化かと申しますと、中国医学を支えているものは、1つは薬物療法であり、1つは鍼灸であります。これは車の両輪のようになって中国医学を支えているわけですが、片方の薬物療法の古典に『傷寒論』があり、鍼灸の方の大事な古典に『黄帝内経』があります。この両方はそれまでは別々なものとして考えられていたわけですが、この両方を一元化しよう、同じ理屈で考えてみようという試みでありまして、つまり『傷寒論』を『素問』の理論で解説しようというわけで、その最初にできたのが成無已という人の書いた『註解傷寒論』という本であります。これは、『素問』の理論で『傷寒論』を説明したものですが、『素問』の理論の背景には中国の自然哲学があります。陰陽五行説を中心とする自然哲学がそれであります。したがって、『素問』の理論で説明するかぎり、どうしても思弁的にならざるを得ません。『傷寒論』という本は元来非常にpracticalな本ですが、そのpracticalなことを修飾するために哲学が入り組んでくるというわけであります。この理論で医学理論を統一するということですが、その背景には宋学(朱子を頂点とする儒学)があります。この朱学とパラレルに、いわゆる金元流の医学が起こってきたわけであります。もちろん金元流の医学の功績も大きいのでありますが、悪い点もなきにしもあらずであり、どうしても思弁に走りすぎてしまうのであります。その一つの例を申しますと、鍼灸でいう経路を薬物にまで応用してしまうという点があるのであります。たとえば、ある薬はある経絡に効く、つまり選択的に作用するというものであります。これはちょうど今の薬理学でいう作用点のようなもので、面白い考えですが、それを決めるものはやはりspe-culationでありまして、どうしても牽強付会はまぬがれないということがいえるのではないかと思います。たとえば、甘草は足の厥陰肝系に効くとか、太陰脾系に効くとか、少陰腎経に効くとかいうようなことでありまして、そういうことがいささか無理ではないかと私は思うのでありますが、果たせるかな日本の江戸時代には、この金元流の医学が手きびしい批判を受けることになるのであります。
 しかし金元流の医学は、中国におきましては非常に評価されまして、続く明、あるいは清という王朝にも金元流の伝統が引き継がれてゆくわけであります。この時期は、もちろん金元流の医学が絶えずmodifyされておりますが、本質的には金元流の医学の継続ということがいえるのではないかと思うのであります。もちろん明、清時代にも非常に大きな著作が出されております。たとえば代表的なものに李時珍という人の書いた『本草網目』という、膨大な薬物書があります。これは中国はおろか、西洋でも非常に評価されて、非常に古い時代に翻訳されて、全訳ではありませんが、すでに1753年に、たとえば人参の項目を始め、いくつかの項目がフランス語に訳されているというわけで、古くから西洋にも知られた大事な古典であります。しかし、金元の伝統はひきつがれてゆき、そしてそれは中華民国にまで及んでいると思われます。


■伝統医学の批判から評価へ
 清末から中華民国にかけて、特に阿片戦争からあとの医学というものはかなり変動してゆくのでありまして、政府の要人の、中国医学に対する評価が転々と変わるという時代であります。このことはむしろ西洋の方でよく研究されておりまして、この時代のことをアメリカ人の歴史家が非常に克明に書いた立派な本がありますが、それによりますと、民国の初期の魯迅、孫文などを中心とするリベラリスト、それから中華人民共和国の母体となりました中国共産党の初期の人たちは、いずれも中国医学に対して非常に批判的でありました。少なくとも初期は非常に批判的でありました。阿片戦争当時の中国が非常にみじめな状態であったのは、中国の古い伝統という古い垢のようなものが中国人を毒しているのであるという考えであり、その槍玉に挙がったのがやはり伝統医学であります。したがって何度も伝統医学の抹殺論というものが中国でたたかわされたわけです。そして結局は長い伝統に支えられたものが現在まで生き続けてきているわけですが、しかしこれはなかなか坦々たる道ではありませんでした。
 毛沢東にしましても、初期の論文を読みますと中国の伝統医学に対しての評価は、晩年とはかなり違っております。初期には、現代医学が普及すればそれが望ましいのであるが、その段階的な処置として、伝統医学によってそれを補ってゆくというような考えでありました。つまり代用品というような評価であります。ただし革命軍が延安あたりで非常に苦労するということで、その際は伝統医学のお世話になるわけですから、伝統医学の評価はひきつがれて、 1949年の中華人民共和国の成立以後は、従来の代用品的な積極的な評価を離れまして、積極的な中西合作というような方向に動いてきたのであります。中国医学と西洋医学を同じ立場において、両方の協力によって新しい医学を見出そうというのでありますが、その成果には見るべきものがあります。

 その一つには、先頃から話題になっております針麻酔のようなものもありますし、薬物療法の方でも、新しいいくつもの成果がすでに発表されております。たとえば最近私の聞いたものでは、胆石に対して非常に効果のある処方が中国で開発されて、最大のものは3p×5pくらいの石がでたというような報告もあります。
 中華人民共和国の最近のテキストを見ましても、今の唯物思想からいうと相容れないように思われますが、たとえば陰陽五行というような中国医学のバックボーンをなしている思想に対しても十分な関心が払われておりまして、いちがいに捨て去ってはいないのでありまして、そんなところにも中国政府の伝統医学に対する姿勢がうかがわれるのであります。陰陽五行説と唯物思想とは相容れないように思えますが、中国人は利用できるものは利用するというわけであり、陰陽五行説というのは非常に素朴な唯物観であり、それでもってすべての医学理論を説明することはできないし、さまざまな現象を解明しつくすことはできないけれども、実際の要求にマッチしたものでありますので大事なものはとってゆくというのであります。すなわちそれだけで説明してはいけないが、それが新しい評価をされているということがいえるわけで、こういう事態になりましても、やはり『素問』『霊枢』に始まる中国医学の伝統が充分に評価されているということは注目してよろしいと思います。


漢方医学の流れ(2) 日本編
  大塚 恭男 北里研究所付属東洋医学総合研究所/部長

 日本における漢方医学の歴史は、大体次の五つの段階に分けて考えるとよいと思います。まず第一に、中国医学の非常に忠実な模倣の時代で、これが初期といってよいと思われますが、大体6世紀くらいから15世紀くらいまでがそれであります。その次に後世派という時代があります。これは中国の金元医学の影響を非常に強く受けた時代であり16世紀から 19世紀くらいまでであります。それから西洋医学と拮抗した時代で、これは16世紀に西洋系の医学が入ってきますので16世紀〜19世紀までであり、最後に漢方医学の復興時代で、これは20世紀であります。

■中国医学模倣の時代
 まず、初期の時代で私どもに興味深いのは、正倉院にその時代に使われて薬物がいまだに保存されていることであります。1200年前の薬物ですが、非常によい状態で保存されているという驚くべきことがあるわけであります。これは聖武天皇が亡くなられて49日の時に、東大寺の大仏に供養するという意味で薬物を寄進したものですが、それが現在まで残っているわけであります。これは全部中国から輸入したもので、それを見ますとその時代の医学がおおよそわかるのですが、不思議なことには、その当時の中国主流の医学とはちょっと離れたような薬物がずいぶん入っております。たとえば檳榔子といったような、中国に産しない南方系の薬物がここに見られるということであります。
 それはともかくとしまして、この時代の代表的な書物と申しますと『医心方』であります。丹波康頼という人が982年に書いたものであります。これは30巻もあり、現在まで残っている日本で書かれた医学書としては一番古いものであります。これを見ますと、全部中国の医書からの引用であります。著者丹波康頼の意見というものはまったく書かれておりません。丹波康頼のアイデアによって、中国のたくさんの文献から編集したという功績がありますが、ともかくも書いてある内容は全部中国の古典からの引用であります。ただし、引用してある元の書物が中国でもほとんどなくなっており、わずかに『医心方』によってその面影を知るというものが非常に多いわけで、その意味では大事な古典であります。模倣と申しましても日本的な発展も徐々に見られるのでありますが、はっきりと日本が独自の歩みをし始めたのは16世紀以降であろうと思います。
 15世紀の末に明から帰国しました田代三喜という人がおります。この人は明国に12年留学しておりまして、その明国でたまたま日本人の僧医月湖に会い医学を学びました。もちろん月湖以外の人にも学んだと思いますが、12年留学して帰ってきた時に月湖の著作であります『全九集』とか『済陰方』というような本を持って帰りました。帰国したのが1498年ですから15世紀の終わりですが、当時、明国では先回申しましたように、金元流の医学が引きつがれておりましたので、その金元医学を日本に広めたのであります。

■後世派-金元医学の影響時代
 金元医学と申しますと、前回に申しましたように、いわば思弁の勝った医学でありますが、田代三喜、あるいはその弟子の曲直瀬道三という人が、非常に平明に、周りくどい理論を避けて実用的に、日本人に合うようにこれを紹介したわけであります。弟子の曲直瀬道三は、後世派の最大の人物であります。1507〜1594年に生きた長命な人で、京都からはるばる関東に来て田代三喜に教えを受け、京都に帰って、臨床をするかたわら本を書いたり、塾を開いて後進を養成するというような大きな活動をした人であります。道三の本で特に有名なものは『啓迪集』8巻であります。これには金元医学をわかりやすく書いてあり、同時に今のわれわれにも大事な医者の心得のようなことも書いてあります。ただし金元医学を奉じたと申しましても、同時に張仲景の『傷寒論』の処方も重視して、急性の疾患には張仲景の処方がよくて、慢性の疾患には金元流の処方がよいというようなことも書いてあります。ですから後世派と申しましても、必ずしも金元流の医学にとらわれないで、効くものは何でもとるという立場であります。
 また同時にこの人は「薬というのは必ず毒がある。世間の人は薬のよい面だけを強調するけれども、薬には両面があって、必ず悪い面もあるから、やみくもに薬を使ってはいけない」ということもいっております。こうして曲直瀬道三の弟子たちが栄えるわけですが、中でも息子の玄朔という人が大きな業績を残しました。たとえば『医学天正記』という本があり、戦国時代ですから、戦国の武将や、当時の有名人を診た治験例をまとめたものとして非常に面白い読み物であり、今でも残っております。ただ後世派の中には、末流になりますとあまりかんばしくないのも出てきます。たとえば金元流の理屈の方ばかりこねまわすということであり、やがてそれが批判されるもとになりました。

■古方派-日本独自の発展の時代
 その批判をしたのが古方派というわけですが、なぜ古方派というかといいますと、後世派つまり金元医学を廃して、張仲景の昔にかえれということを主張したからであります。張仲景の方が金元よりはるかに古いわけですから、張仲景の古典へかえれと呼びかけたわけであります。一方、古方の生まれた漢に対して、金元というのはずっと後の世ですから後世派という名前ができたわけであります。
 古方派の最初の人物は名古屋玄医(1628-1696)という人です。ちょうどその時、日本の儒学では伊藤仁斎とか荻生徂徠という人がありまして、やがり朱子学を廃して孔子の原点にかえれということで、古学ということをいったのでありますが、それと並行的に医学の方でこのような古方派という流れが出てきたのであります。
 古方派と申しますと、いかにも古めかしいように思えますが、実はこれは革新派であります。非常に実証主義的な学派であり、親試実験をスローガンにしております。西洋のルネッサンスでもそうですが、古典にかえるということで革新をするというのは歴史の常套ですが、この古方派もその例に洩れないのであります。その中には山脇東洋のように、日本で初めて解剖をして、その記録をとどめるというような人も出てきます。あるいは香川修庵のように中国の古典を一切批判しつくして、とうとう『傷寒論』の中にも陰とか陽とかということがさかんに出てきますが、傷寒論の中から引用をすっかり取除いてしまう、つまり傷寒という病気を三つの陽、三つの陰のステージに分けて書いたのが『傷寒論』ですが、『傷寒論』から三陽三陰病という概念をすっかり取除いてしまう、つまり『傷寒論』の文脈をまったく無視してしまい、ただ処方だけをとるというのです。『傷寒論』の処方は重視したのですが、その文脈は一切無視してしまうという立場であります。
 この時代に非常にユニークな二つの医学論が出てきます。一つは後藤艮山の「一気留滞説」であります。これは、中国の理論では人間の病気というものを内因と外因と不内外因との三つに分けています。内因というのは、喜びとか悲しみとかが過ぎると病気になる、外因というのは温度の暑いとか寒いとか、湿気が多いとか、いわば気候的なものです。内因と外因はどうしようもないものですが、不内外因というのは、人間の努力次第では避けられる、たとえば欲食の不節制というようなことであります。
しかし後藤艮山は、それだけでは不十分であって、そういうものがあったうえでさらに人間の体を流れている気というものが滞ってはじめて病気になるという説であります。つまり同じような暑さ寒さにあたっても、病気になる人もならない人もいる、いってみれば生体側の防衛反応を重視したという点でユニークであり、現在でも非常に新鮮味をおぼえる説であります。
 それとまったく対照的なものが吉益東洞の万病一毒説というものであり、すべての病気は一つの毒から起こるという考えであります。毒という言葉からすでに想像できますように、毒というのは外来の因子でありまして、それが入ってきていろいろな病気を起こすわけですが、その毒は一つきりしかない、すべての病気は一つの毒で起こる、というものであります。もし一つの毒であるならば薬は一つあればすむのではないかということになりますが、そうではなくて、毒は一つであるが、人体に毒が所在する場所によって症状が違い、したがって薬も違わなければならないというのです。つまり疾病の局在説で、局所を重視する考えであります。ちょうど西洋のウイルヒョウの考えに近くなるわけですが、生体を全体として眺めるという中国の伝統からは非常に異端的な説であり、疾病の局在ということをいう立場であります。
 しかし東洞という人は、そういう異端的な説を出しましたが、影響の大きい人でありまして、特に東洞の最大の力作であります『薬徴』という本は、今でも日本人の著わした中国の薬の本としてはもっとも大事な著作の一つであります。こういう古方派の流れがありますが、それが後世派と相並んで明治まで行われてくるわけであります。そしてその間には両派を折衷したような学派もあります。

■西洋医学との拮抗時代
 次に西洋系の医学との拮抗という問題ですが、西洋系の医学というのは16世紀に日本に入ってきました。 16世紀の後半にまずポルトガル、スペイン系の医学が入ってきました。これは当時南蛮医学と呼ばれました。そして17世紀になってきますと、それがオランダの医学にとってかわられ、これは紅毛医学といわれておりました。南蛮医学にしても紅毛医学にしても、ちょっと見下げたような言葉ですが、それがだんだん勢力を得てきます。特に18世紀の後半になりますと、非常に強くなってきまして、1774年に杉田玄白らの『解体新書』という本ができました。これが一つのエポックを画するわけですが、『解体新書』の前後から紅毛医学などということをやめましてオランダの医方ですから蘭方と称し、それに対して中国系の医学を漢方と称しました。それまではauthorizeされた医学というと中国系医学しかありませんので、これを特に漢方と呼ぶ必要はありませんでしたが、オランダ系の医学が非常に強くなってきますと、片方を蘭方、片方を漢方というようになったわけであります。その中には漢蘭折衷派、つまり漢方と蘭方ほう中間のようなものもあります。たとえば華岡青洲などはその代表的なものであります。華岡青洲は有名な全身麻酔で乳癌の手術を行った人ですが、麻酔に使った薬は漢方系の薬でありますが、手術の手技その他は蘭方から学んだものであります。
 漢方と蘭方の勢力関係は、18世紀の末までは漢方の方が強かったように思われます。と申しますのは、 1972年に西洋の内科の本が宇田川玄随によって日本で初めて翻訳されて『西説内科選要』という名前で出ております。ただし、その序文を漢方の大家であります多紀元簡という人が書いております。このことは非常に象徴的なのですが、まだこのころは漢方が優位であったということを示すのではないか、西洋の内科の本に漢方の大家に序文を依頼する、漢方の大家の多紀元簡も気やすくそれを書いている、むしろ西洋の内科は立派であるから、大いに発展を望むようなことを書いているわけですから、あくまでも漢方が優位に立っているように思われます。
 しかし、これが19世紀になってきますと、だいぶ様相が変わってきまして、この本の第2版からはその序文が削られております。19世紀の中頃に種痘が入ってまいります。そしてこれが決定的な役割を果たしまして、次いで明治政府が、明治2年にドイツ医学を範にとるという決定をくだし、明治7年以降、段階的に中国医学は法律的に葬られるわけであります。中国医学を勉強しても医者にはなれないということになりまして、後継者が絶たれるわけです。そして今度は西洋医学だけになりますから、医学といえば西洋医学ということで、特に漢方をいいたい時には、漢方ということになったわけです。

■漢方医学の復興時代
 20世紀になり漢方の復興ということが行われました。まず1910年に、和田啓十郎という方が『医界之鉄槌』という本を著わしました。この人は済生学舎に学んで医師となった人ですが、臨床医学として漢方は非常にすぐれているということを強調したのであります。それに刺激されまして、次から次へと漢方を勉強する人がふえてきました。昭和になりましてそれが非常に盛んになり、特に戦後はご承知のようなブームを生んだわけであります。西洋医学が隆盛を遂げているのに、漢方がまた盛り返すというのは一見paradoxicalに思われますが、やはり臨床医学として捨てがたいものを持っている漢方が見直されるのは当然であると思います。



漢方医学の考え方(1)
 大塚 敬節 北里研究所付属東洋医学研究所/所長

 私たち生きた人間にとって、一番大切なものは何であるかといいますと、目で見ることもできないし、耳で聞くこともできないものが一番大切であります。ということは、それは私たちの体の外では空気であり、私たちの体の中にあっては命であります。この空気も命も、、見ることもできなければ聞くこともできないというものであります。この見ることもできない、聞くこともできないものを漢方医学では「気」と呼んでおります。この「気」は宇宙間に瀰漫している大気も、人間の元気も同じものであるというのが、われわれの先輩に考え方でありまして、人間の元気も大気もみな一つであるという考えから、漢方医学の考え方が発達してくるわけでありまして、漢方医学の一番古い古典である『素問』(前漢時代に出来上がったもの)という本の中には「病は気に生ず」という言葉があります。ところがこの気に陰の気と、陽の気があって、陰陽の気の不調和が病気であるというようなことをいっております。この不調和を調和することが治療でありまして、この不調和がどのような状態になっているかを見るのが診断であります。これが漢方の一つの考え方であります。

■漢方における“気”
 戦国時代の末に、『呂氏春秋』という書物ができました。この書物では、陰の気と、陽の気とが結びつくことによって命が生まれる、陽の気と陰の気がバラバラニ分かれてしまうことが死である、陰陽の気の不調和が病気であるというように説明しております。 1659〜 1733年まで生きておられた後藤艮山という徳川時代の漢方の大家がありまして、この人は一気留滞説ということを唱えました。一気留滞説というのは、すべての病気は、気の不めぐりが原因である、気のめぐりが悪くなることが病気の原因である。したがって、病気を治すには、気のめぐりをよくすることが一番大事であるというように主張したのであります。したがって、彼は特別に順気剤という処方をつくって用い、それから温泉療法とか鍼灸療法はすべて、気のめぐりをよくする効があるから効くのだとしてこれを推奨し、そして病気の治療には看護が大切であり、また飲食物が大切であって、その食べ物の指導をするなどこまかく気を配ったことが、艮山の説を門人たちが筆記した『師説筆記』という書物の中に出てきます。この艮山の系統には山脇東洋とか、永富独嘯庵とか、亀井南溟などの名医が続きました。
 この艮山より遅れて吉益東洞という古方の大家が出ましたが、この東洞は、目に見えないものは一切相手にしない、目に見ることのできないものは医の対象にならないということを唱えたのであります。この時代にこういうことをいったということは、まずすばらしいことで、見方によっては非常な卓見であり、要するに今日の医学と同じように、実証できないものを否定したわけであります。したがって、目で見ることのできない「気」というものを否定しまして、陰陽の気は医者には用のないものである、人の命も目で見ることができないので、医者の関係することではなくて、天の司るところであり、天命であるということを唱えたのであります。
 この天命説は、東洞が誤って病人を殺した時の逃げ口に、逃げ道として作ったものであって、けしからぬことであるといって、当時の医界からは激しい攻撃にあいました。これに対して東洞は、人事を尽くして天命を待つの意であるというふうに抗弁しておりますが、艮山の曽孫弟子のあたる亀井南溟は、「天命は知らぬというが、命尽きて病治りてきつい迷惑」という歌を作って東洞をからかっております。
 東洞の説を掲載した『医断』という書物が発行されまして2〜3年経ったのちに山県大弐が『医事撥乱』というすばらしい名著を書きあげたのであります。この山県大弐は、後藤艮山の系統の医者でありまして、これは勤王の士として有名で、医者であることが忘れられておりますが、医者としても非常な見識を持っておりまして、当時の医学界の乱れを正すために書いたのが、この『医事撥乱』という書物であります。大弐が死刑になった時に、こんな本を持っていると自分にも累が及ぶであろうというのでみな焼き払ったりして、ほとんどこの本が姿を消してしまったのであります。
 私は偶然これを二つほど手に入れまして読んだところ、この本の冒頭のところで、吉益東洞の陰陽無用論を批判して、医者は見ることのできないものをみなければならない、病気というものはみることのできないものである、そのみることのできないものをみるのが医者のつとめである、したがってみることのできないものを見る手段に、陰陽という言葉を借りて論をたててあるのであって、陰陽の必要なことは十分認めなければならないとして、、考証をしております。
 東洞は、漢方で一番大切な陰陽の気を目に見えないとして否定したばかりでなく、この医学の『神農本草経』以降の、薬の効能を書いた本草書の説も全部否定しまして、漢方の伝統の大部分を否定してしまいます。そして彼は、『傷寒論』の古にかえるということを旗印としておりましたが、傷寒論の中でも、自分の識見に合わないものは、みな作りかえまして東洞独自の医学を樹立したのであります。この東洞の医学は現在の西洋医学にもっとも近い考えの上に立っておりますので、富士川游とか呉秀三というような医史学をやった医者は、徳川時代の漢方医界の第一人者として推奨しているのであります。
 ところで東洞の長男の吉益南涯を初め、多くの門人の中に、目に見えぬものはいわないという東洞の説を継承したものはだれ一人としていなかったのであります。東洞の医学は東洞一代で終わりまして、東洞の説を継承する人はなく、南涯は『気血水薬徴』という書物を書きまして、気の重要性を取り上げているのであります。このことは、東洞が、今の言葉でいいますと、漢方を学として体系づけようとしたけれども、そこには非常に無理があったために、やはり漢方は術でなければならないとして、門人や跡とりの息子たちも、やはり父の後、師匠の後を継ぐことはできなかったのであります。
 術としての伝統を否定する時は、漢方そのものを否定するということになるから、非常な非難があちこちであったわけでありあます。とくに亀井南溟は、漢方はあくまで術でならなければならないと考えまして、医の妙所は手にもとれず絵にも画けないものだといい、「方を読むこと3年、天下治せざるの病はなく、方を用いること3年、用ゆべき方なし」という唐代の孫思ばくの言葉を引用しまして、学問や知識だけでは何の役にも立たない、将棋を指したことにない人の書いた将棋のさし方という本は、いくらうまく書いてあっても役に立たないということをいっております。

■術としての伝統
 三国時代の魏の国の将軍に張奢という非常な名将がおりまして、戦には一度も負けたことがないという人です。その息子張括は戦争のことで父親と議論をすると、いつも父親をまかしました。父はいつも理屈では息子に負けたけれども、戦というものは理屈ではない、何となく違うところを見るのが戦の妙所である、何となく違うところは筆にも書けないし、いえないものである、そのいえないところを理解しなければ危ない、きっと張括は、理屈はいうけれども本当の戦争ではどうなるのかなといって心配するのです。ところが果たして、張括は50万の大軍をひきつれて秦の群との戦にでますが、戦に負けて、50万の兵士が全部大きな穴に埋められて一人残らず死んでしまい、自分は自殺をしたのであります。南溟はこの話を自分の本の中に引用して、学問だけでは何の役にも立たない、これは術であるから、術を磨かなければならないということをいっているのであります。
 その頃のことですが、京の七不思議の一つに修庵の療治下手というのがありました。修庵とは後藤艮山の門人の香川修庵のことで、儒学と医学は一つであるという説を立てて、『一本堂行余医言』とか、『一本堂薬選』などの名著を著わしておりまして有名でしたから、患者が門に押しかけてきましたが、病気はほとんど治らなかったというので、京の七不思議の一つになったというのであります。これによっても、ただの知識というものは何にもならないのである、患者を治療することは術であるというわけですが、それは今日でも外科の先生が、いくら本で外科の術を知っているからといってうまく手術ができるわけではなく、やはり術ですから体験が必要でしょう。それと同じことで、術から離れてはだめだということです。
 そこで東洞の門人の中でもっとも治療のすぐれたのは、和田東郭という人でありましたが、この人が自分の門人に語った書物に『蕉窓雑話』というものがあり、東洞とはまったく別の途を歩いていたことがこの書物によってわかるのであります。東郭は、医の道は忠誠を尽くすのみである、といいました。忠とは自分を欺かないことであり、不忠とは自分を欺くことであるから、術を磨くにもj術を施すにも、患者に誠を尽くして、忠をたて抜く以外に何ものもない、ということを繰返してこの書物の中で述べております。
 術を磨くには、一芸に凝りかたまって習熟すべきであって、心があれこれと多端に向かう時は、術の妙所に至ることはむずかしい、ただ一筋に心を走らせ、これを思い、これを求め、山に遊んでも、たばこ盆一つを手に取っても、すべてのことが自分の心がけ次第で全部自分の術の工夫の手がかりになるものであるから、夜も昼もやすまずに工夫、鍛練をする時は、必ず豁然として悟る時がくる。その時は実に手の舞い、足の踏むところを知らないほどの喜びが訪れるものであるから、ただ一途に術のことをのみ求むべきである。そして槍の名人とか、まりつきの名人の話などの例をあげて説明しているのであります。
 このようにしまして、東郭は、有法の法は死法である、無法の法は活法であるという境地に達するのであります。つまり、形や法則にくくられるのは有法の法であって、死んだ法則であり、実際の術の活法は、形や法則にくくられずして無法の方を得るのである、というのであります。たとえば小柴胡を湯は、「胸脇苦満、往来寒熱、黙々として飲食を欲せず」と『傷寒論』に書いてあります。そうすると、小柴胡湯はこういう処方だからと、それだけで小柴胡を使ったのでは有法の法であって、その法は死んでしまっているというわけです。大承気湯は腹満、便秘、潮熱というような場合に使うということが『傷寒論』に書いてあります。ところが、そういう場合だけが大承気湯を使う目標であると思って、それを覚え、それに一途に型の通りにやると死んだ法になるから、その区別を知るのが診察であり、その区別は筆にも現せないし、口でもいえない、ただ何となく違うので、何となく違うところを覚えなければならないといっております。
 それでは、なんとなくちがうところを見覚えるにはどうしたらよいかと申しますと、患者に誠を尽くして、ただ一途に術に凝り固まって病人を何とかして治してやりたいという一心になるよりほかに方法はないと、東郭は述べております。
 また東郭は、学問をするということは、対象物(相手)、すなわち医者でいえば、患者と自分とがひとつになることである、彼の中に我を見ることであると申しております。すなわち書物を見るにしましても、書物の中に自分が出てこなければならないというのであります。このようにして、東郭の医訓の中に、「古人の病を診するや、彼を見るに彼をもってせず、すなわち彼をもって我となす。それすでに彼我の分なし、これをもってよく病の情に通ずるなり」ということがあります。すなわち患者を診るのに、彼をみるのに、我をみるようにならなければならないということをいっております。また「古人の病を診するや、色を望むに目をもってせず、声を聞くに耳をもってせず、それただ耳目をもってせず、ゆえによく病応を体表に察するなり」といっております。
 これはどういうことかと申しますと、目で見ないで心で見、耳で聞かないで心で聞くということで、このことは、哲学者の西田幾太郎が『働くものから見るものへ』という本を書きまして、その序文の中で、「幾千年来われわれの先祖のはぐくみきたった東洋文化の根底には、形のないものの形を見、声のないものの声を聞くといったようなものが潜んでいるのではなかろうか。われわれの心はかくのごときものを求めてやまない。私はかかる要求に哲学的根拠を与えてみたいと思うのである」といったことを書いているのであります。このような心は、漢方医学だけではなくて、東洋文化のすべての心でありまして、絵をかく場合においても、彫刻においても書道においても、またわれわれの医術においても共通の態度であります。傷寒論を読むにも、傷寒論が患者に見え、患者が傷寒論に見えるように読めというのが、読書の際の心構えでありまして、患者と医師とが一つになるというのが医術の極致であるわけであります。
 このように考えますと、漢方はただ学問として知るだけではなくて、一つの術を磨かなければいけない、一つの芸術のようなものであるというようなことになってくるわけであります。それで、この医学では、心と体を分けない、心身一如である。心と体が一つであるから、このごろ心身いがくという言葉がありますが、漢方では分けないで、このような言葉はいりません。初めから心と体は一つであるから心だけを病むこともなく、体だけを病むこともない、したがって薬は、体だけでなくて心にまで効くような、いわゆる気を動かすものでありますから、そういうことのために、後藤艮山などの一気留滞論などは非常に面白いことでありまして、今後とも漢方をやる場合に、これをただ唯物的に、見えるものだけを見て、見えないものを捨てるということでは漢方の本当の診断はできないのではないかと思うのであります。


漢方医学の考え方  (2)

大塚敬節 北里研究所付属東洋医学総合研究所/所長

 中国の古い言葉に、天人合一、天と人とは一つであるという言葉があります。これは孟子の中にも天人合一という思想が見えておりますが、天と人とは一つであるという考え方でありまして、漢方医学の考えもこれと同じであり、人は小宇宙であるという考えから、人に体も全部宇宙と同じものであり、したがって、人は天意に逆らうことなく、自然に順応していきることが養生の道であると考えたのであります。

■漢方における病気の考え方
 現代の文明は、自然の征服を目標として進展してきましたので、自然の秘密を探って、自然を人間の意のままに変えて、これを支配せんとしたため、自然が破壊されて今日のごとき状態になったのでありますが、漢方では、自然に順応すること、自然順応を理想としておりますので、薬物も科学的に合成されたものは一切用いません。天然のもの、一般に生薬と呼ばれているものを用いていることは、前回に述べた通りであります。漢方の薬物は、食べようと思えば食べられるものが非常に多く、ほとんどわれわれが日常食べている食品と同様のものがたくさんあります。ところが現代の医学で使っている薬は、食べ物になるものはほとんどありません。むしろ体の中に入って異物となるものが非常に多いのです。漢方の考え方では、食品になるようなものが一番安全であり、そういうものを非常に尊んだというわけでありまして、私たちが日常食べている食べ物が、ほとんど大部分漢方の薬になっているわけであります。
 このような天然の薬物を用いるということは前に申した通りでありますが、この医学では、部分が集まって全体になっているというようには考えないで、部分の中に全体があるということを考えるのであります。それで治療というものは、常に全体療法でなければならない、局所の病気も、常に全体の不調和が原因であると考えますので、そのため治療は、常に、内科的に全身の不調和を調和することに力点がおかれ、内科を本道と呼びまして、患部だけを切り取って病気を治すことは考えなかったのであります。もちろん患部を切り取ることによって、また別の病気の出現することを恐れたのでありました。しかしながら、場合によっては、局所を犠牲にして全体を救わなければならないといことも否定したわけではありません。


■全体療法としての漢方医学
 漢方医学の治療は、全体療法であることが特徴であります。生きた個人を相手に内科的に治療するためには、その治療が全体療法でなければならないのは当然であります。われわれの生命体は一つの全体として、生命の維持発展、生殖などの目的に向かって活躍するのであります。生命という概念は、生命体を構成しているそれぞれの要素とは関係のない、全体的な概念でありますから、このように考えますと、生命を取り扱う治療学が、全体療法でなければならないのは当然のことであります。このため漢方医学では、生命体の一部、たとえば指先のしもやけのようなものでも、結膜炎のようなものでも、慢性の胃炎でも、みな全身の調和を整えることに治療の方針がおかれるわけであります。
 こんな例があります。20才の未婚の婦人でしたが、両手の甲から指にかけてしもやけでふくれあがり、今にもつぶれそうになっています。足は指が主で、足の甲はあまりやられておりません。毎年11月にはいるともうしもやけができ始め、皮膚科の治療を受けているけれども、だんだんひどくなって炊事もできなくなるというわけであります。診ますと、色が白くて肥満していて、脈は沈んで小さい脈をしております。下腹で腹直筋が左右とも緊張していまして、左の下腹に、私たちがお血の腹証と呼んでいる圧痛、抵抗のある部位を証明しました。冷え症で、月経困難症はかなり強く現れるということであります。
 こういう患者に当帰四逆加呉茱萸生姜湯という薬物を用い、患部に紫雲膏という膏薬を塗ることにしましたところ、一か月ほどでしもやけは九分通りよくなりまして、月経困難症は軽くなり、今までの鎮痛剤を飲む必要がなくなりました。そればかりか、他人から顔色が良くなったといわれ、寒さを感じることも少なく、風邪をひかないようになったといって、非常に感謝されたことがあります。
 このことは、単にしもやけだけ治すのではなくて、全体的に体の調子がよくなったことを意味しておりまして、当帰四逆加呉茱萸生姜湯は非常にしもやけに効くということは、漢方をやっている人たちは一般に知っておりますが、単にしもやけだけの薬ではないということは、この例によってもわかるわけであります。
 またこんな患者がありました。男子の大学生でありまして、アレルギー性鼻炎鼻炎と診断されて耳鼻科に通っています。クシャミが頻発し、鼻がつまって少しもよくなりません。そこで私が目も痒いのではないのですかと聞くと、目が赤くなって痒いので眼科にも通っているというのであります。それで私は、これはアレルギー性の結膜炎も一緒になっているので、これは漢方薬でやれば両方一緒に治りますといいまして、診察をしますと、肩から首にかけて筋肉の緊張が非常に強い、体ががっちりした人で、、脈はやや浮いておりますが、非常に力のあるしっかりした脈であります。そこで、耳鼻科へ行かなくても眼科へ行かなくても大丈夫だから、これを飲んでみなさいといって葛根湯という、漢方でよく風邪の時に飲ませる薬をやったのであります。ところが1ヶ月もたたないうちに、この患者が「お陰さまでとともよくなりました。また少々鼻がつまったり、クシャミが出ますが、目の痒いのはすっかりとまりました」といってきました。こういうふうによくなったわけであります。
 葛根湯というものは、大体風邪の初期に用いる薬でありますが、葛根湯を用いるには、葛根湯を用いる一つの目標があります。その目標を診察して使えば、ただ単に風邪だけではなくて、結膜炎にも、中耳炎にも、鼻炎にも、副鼻腔炎にも効くというところに漢方の薬の面白さがあるわけであります。
 人間の体にはまだわからないことがたくさんあります。また葛根湯の効能も、一部わかったことはありますが、すべてがわかってはおりません。それでこれを使って子供の寝小便、遺尿が治ったり、乳汁の分泌がよくなったりした例をもっております。なぜ夜尿症が治るか、なぜ乳汁の分泌がよくなるかということはわかりませんが、そういうことがあるわけであります。
 またある婦人患者がきまして、慢性胃炎で胃の下垂症があって治療を乞いましたので、安中散という処方の薬を与えました。安中散は、慢性に通過する腹痛を主訴として、冷え症で、血色が悪くて、腹壁が弾力に乏しく、臍のあたりでよく動悸が高まり、それから胸やけがあったり、口に水が上がってきたりするものを目標にして用いる薬であります。その患者はこれを飲むと、2ヶ月余りですっかり元気になりまして休薬しておりました。
 ところが、3,4カ月たってまたきまして、また胃が悪くなりましたというのであります。診察しましたが、どうも妊娠のようで、3カ月くらいになっているのではないかと思われるおなかなのです。これはつわりでしょうといいましたところ、その患者は、私は16年間も妊娠しないので、子供をもらって、その子供が今小学校へ行っております。妊娠するはずはありませんというのであります。そして私の診察に半信半疑ですから、婦人科を紹介してみてもらったところが、確かに間違いなく妊娠であるということになりまして、患者も驚きましたが、安中散で妊娠するというようなことは、本には一つも書いてありませんし、安中散で妊娠したという例も初めてでありますからわかりませんが、とにかく妊娠したということは間違いないことで、その子供ももう今は大人になっております。
 これは安中散で胃腸が丈夫になって、全身の調和がうまくとれたから妊娠したと考えるしか考えようがありません。そうしますと、妊娠しないのは子宮が悪いとか、卵巣が悪いとかというように考えないで、やはり全体の体の調子を整えることが先決問題ではないであろうかと考えるわけであります。このように考えますと、漢方では何々の薬、何々病の薬と決めてしまうのは非常に無理です。すべての薬が全身の調和を整える作用を持っていると考える方が正しいのではないでしょうか。
 日本の昔からの家屋では、いわゆる食堂になっているところでも、お客さんが来て、そこへ通せば応接室になります。そこで本を読めば書斎になりますし、夜片づけてふとんを敷いて寝れば、寝室になります。こういうふうに、自由に融通無碍にゆくところが日本の家の特徴でありますが、漢方の薬も、そういうふうに融通無碍に使えるということで、それは使う人の腕次第であり、同じものでも人によって、いろいろと使い道が違ってきます。そうすることによって、今まで使ったことのないような使い方をしても効くということがありまして、これは非常に面白いことでして、漢方が少しわかってきまして、薬を使えるようになると、それが何よりも楽しみになり、人のやったことのないようなことをして、治りにくい病気を治すことができます。
 したがって、漢方では「あなたの病気はなおりません」ということはいってはなりません。このごろのお医者さんは、あなたの病気は一生治りませんよということを平気で申しますが、「あなたの病気はまだ私の手には負えません。ですからもっと上手な人に診てもらって下さい」というのが正しいのであって、その人が治せないから治らないというのは、漢方の立場ではいえないということであります。


■漢方における診察法
 次に、漢方の特徴としては、患者の個人差を非常に重視して治療することであります。患者にはそれぞれ生まれついた素因があり、そしてまた生活環境を異にし、生まれてのちの病気と、その病気による変化など、同じ病気にかかってもいろいろと反応が違ってまいります。この違いを細かく診察して、その個人差の上にたって治療するのが漢方の治療であります。そのため漢方の診察は、治療法を決めるための診察法であって、漢方流にいえば証を診断するのであります。
 この症の診断というのは、あとで山田先生がお話ししますからここでは触れませんが、証は証拠の証でありまして、この患者には葛根湯証があるといえば、葛根湯を飲ませたら治る証拠があるということになります。たとえば先にあげたアレルギー性鼻炎と、アレルギー性結膜炎のある患者の場合でも、葛根湯でよく治るものばかりでなく、小青竜湯を用いる場合もあり、また用いなければならない場合もあります。また柴胡桂枝湯を用いる場合もあり、真武湯という処方を用いなければならないこともあり、桂枝人参湯を用いなければならない場合もあります。
 これらの鑑別が、漢方診断の一番むずかしいところで、口でもいえず、文章でも表現できず、何となく違うという、何となく違うことが大切であります。したがって、これは長い経験を積んでから初めて会得できるものでありまして、私が湯木求真先生のところへいって、先生にいろいろ質問すると「悟れよ、悟る以外に方法はない、口ではいえない」といって全然相手にしてくれなかったことを思い出しますが、確かに先生のいう通りであったと今でも思うわけであります。
 漢方の治療をしていて考えることは、患者の自覚症状が、他覚所見より非常に早くよくなるということであります。他覚所見はそれほどよくなっていないのに、患者は自覚症状が非常によくなることを訴えます。たとえば慢性肝炎の患者などで、非常に元気になって顔色もよくなってきているのに、GOTもGPTも少しも下がらず、やはり多いといって気にする患者がよくあります。けれども私は患者にいいます。また現代の医学では、肝臓の働きというのが全部わかっているのではない、GOTとGPTがすべてではないから、その数字が下がらないからといって悲観することはないきはないか、もっと物を全体的に考えなければでまではないか、とにかく疲れを忘れ、元気で働けるようになったことはたいしたことではないか、と患者さんにいって聞かせるわけであります。そうすると患者さんもだんだん安心してきます。
 このように自覚症状が、他覚的所見より早くよくなるが、他覚的所見がよくなっていないために、漢方はだめだという先生があります。それは確かにそういう場合もありますが、他覚的所見がずっと遅れてよくなるということがあります。今の医学は他覚的所見を非常に重くみて、患者の自覚症状を比較的軽視するといってはおかしいけれども、他覚的所見の方が自覚的所見より重いように考えます。それが患者にも反応して、すべて検査をして、検査の結果がよくなると、自覚的所見がそんなによくなっていなくても安心するという場合が多いように思います。
 漢方では、心と体が一つですから、そういう点を考えまして、薬は何も飲ませないでも患者がよくなる、患者の心がけ一つでどんどんよくなる病気もあるということを考えまして、自覚症状がよくなるということは、他覚的所見もよくなる前兆であるというように患者さんを指導するべきであります。少しもよくなってはいないよというようなことはおっしゃらない方がよいと思います。患者にとっては希望ということが一番大事で、希望ほど効く薬はありませんので、患者から希望を奪ってはなりません。患者に希望を与えること、治るという希望を持つことは病気の治る前兆でありますから、他覚的所見が悪いということだけで、あまり患者の心を失望に導かないように、だんだんよくなるようにもってゆくことが何よりであると私は思うわけであります。


漢方医学の診断法(1)
 山田光胤   日本東洋医学会/副理事長

■漢方の診断・証
 医学の目的が病気の治療のあって、治療法を決めるために診断を決定するということは、洋の東西を問わず同じであります。現代医学、いわゆる西洋医学にはそれなりの診断名があって、これが現代社会でもっとも普及されている病名です。東洋医学の漢方も医学でありますので、診断を決めることが大切です。しかし東洋医学は西洋医学とはいろいろな点で違っているために、診断法も診断名も当然違っています。
 漢方では、診断を決めることを証を決めるといいます。証とは証明の証であります。病人が治るあかしでもあります。では証とはどんなものかということを、例を挙げて述べてみましょう。

証・その例

 子供が流感にかかった時にこんな症状になることがよくあります。熱が出て、嘔吐と下痢がひどくて、飲食物が通らなくなるというような時です。この時注意深く観察しますと、喉が渇いて水を欲しがります。しかし飲んでもすぐ吐いてしまいます。そして一方では排尿が非常に少なくなります。そこでこの患者に対する漢方の診断は、五苓散証ということになります。そこでこの患者に対する漢方の診断は、五苓散証ということになります。
 さてまた別の場合ですが、夏の暑い日に、長い時間太陽にあたって日射病になったとします。この時の症状は、頭痛がして、目まいがし、ひどく喉が渇いて、いくら水を飲んでも喉の渇きが治らないということがよくあります。この時気をつけてみますと、やはり尿の量が非常に減っています。こういう患者に対する漢方の診断は、これもまた五苓散証というものであります。
 
 五苓散証
 五苓散証とは、五苓散と名づけられた漢方の処方、すなわち茯苓、朮、沢瀉、猪苓、桂枝の5種類の漢方薬の組み合わせをのみますと、その病態がよくなるということを意味しております。事実、前のような場合に五苓散を用いますと、子供の嘔吐はごく短期間でとまり、排尿があって、やがて解熱します。もちろん下痢も治ります。私も自分の子供や兄弟の子供が小さかった頃に五苓散を用いて、目の前で漢方薬の効果を見て驚いた経験があります。患者さんにしばしば感謝された経験もあります。後の場合のような例は、自分自身でも経験しております。夏の暑い日に直射日光に照らされて運動をした時のことであります。
 さて、前の流感と、あとの日射病は、西洋医学ではまったく別の疾患単位とされております。しかし両者には、喉が渇いて、排尿が減少するという共通性があります。これを据えて漢方では五苓散証という診断の根拠とします。

■証をきめる物差し
 さて、証の決定としまして、漢方の診断が正しかったかどうかは、その処方が効いたかどうかということで証名されます。すなわちこれが「あかし」であります。以上1例をあげましたように、漢方の診断は、西洋医学の診断とはまったく違う立場にたって病気をみて決めるわけであります。これが証なのです。そして証は、処方の名をつけて呼ばれるものであり、証の決定はそれ自体が処方の決定、すなわち治療法の判定であるということがこれでおわかりかと思います。このように証とは、漢方の見方に立って類別したある病態であります。ところで実際には証の判定は、一般的な症状のほかに、漢方独自の物差しを用いなければなりません。この点について傷寒論の考え方を述べてみましょう。

陰陽という物差し
 まず陰陽ということをお話しします。陰陽という基準であります。その前に、漢方では病気を大別して、熱のある病気、すなわちこれを傷寒といいます。そういう熱病と、熱のない慢性病を雑病といって、この二つに大別しております。熱病は変化が激しくて、病気の変化をはっきり示しますので、別病熱病を例にとって話を進めてまいります。また熱の出る病気の例としまして、よく見られる簡単な病気として風邪について考えてみることにしましょう。
 普通、風邪をひきますと悪寒がして、そのあと熱が出て熱感が起こってきます。熱感があるのが陽の病気、すなわち陽証です。陽証の患者には熱を下げる薬を用います。これに対して、風邪をひくと寒気ばかりしていて、熱感が起こらないで、体温が上昇しても青い顔をして、手足が冷えて元気のなくなる患者があります。この寒気ばかりきているのが陰の病気、すなわち陰証です。陰証の患者には附子というような薬を用いて、体を温めて体力を補うような治療法をとります。
 この陰陽の区別は熱病ばかりではなくて、熱のない慢性病にもありますが、ただ熱のない病気では熱病の時ほどはっきり現れません。そういう時は、陰証は温かくて色が赤味がかっていて、症状が発揚性で顕著に現れるのに対して、陰証は、体が冷えていて、色が蒼白で、症状が沈潜的で、はっきり現れないという原則をもとにして、病人の陰陽を判別しなければなりません。


虚実という物差し
 次に虚実という物差しについてお話します。漢方で虚実というのは、うそと本当というような意味ではありませんで、虚というのは空虚の虚であり、力が弱いことをいいます。実というのは充実の実で力の強いことを意味します。もう一度、前に述べました風邪に話を戻してみます。風邪のひき始め、発熱する初期には悪寒がして、体温が上がって、熱感が起こります。これを漢方では悪寒、発熱といいます。そしてまたこのときたいていは頭痛を伴います。このとき脈は脈は浮の脈を現します。浮の脈とは、橈骨動脈のところに軽く指を当てただけで脈を触れることのできる、表在性で振れやすい脈であります。この悪寒、発熱、頭痛、脈浮というパターンを漢方では表熱証として、表すなわち体表に熱があると考えます。そして表の熱は発汗によって解熱させるという治療法をとります。
 ところで同じ表熱証でも二つの異なった場合があります。一つは脈が浮で力があって、汗が自然には出ない場合と、もう一つは脈が浮で弱くて、自然に汗が出る場合であります。前者の場合は麻黄の入った処方で発汗します。しばしば見られるのは悪寒、発熱、頭痛、脈浮で力があって首筋、背筋が凝ってこわばり、自然には汗が出ないというパターンでありまして、これは葛根湯証といいます。またこれに似て脈は浮緊で一層力があって、首筋、背筋などは凝ることがなく、むしろ各関節が痛んで自然には発汗しないという形であり、これは麻黄湯証といいます。
 葛根湯や麻黄湯には麻黄が組み合わされていまして、これらの処方を飲みますと、汗が出て熱が下がります。ことに麻黄湯証は、患者の体力が充実していて、病気と体力との争いである闘病反応が激しく現れているものであります。これを実証といいます。充実の実であります。こういう場合は表熱証のうちの実証なので、表熱実証といいます。
 一方、悪寒、発熱、頭痛、脈浮弱で、自然に汗が出るというパターンがあります。脈浮弱というのは、脈に力がなくて、脈をみる指に少し力を入れますと脈が消えてしまうような浮の弱い脈をいいます。こういう場合は麻黄湯を用いて発汗しますと、発汗が過ぎて、かえって具合が悪くなります。そこでこれには桂枝湯を用います。すなわちこれを桂枝湯証といいます。脈浮弱で自然に汗が出るのは、平素体が虚弱で体力のない人に現れるパターンであります。これを虚証といいます。桂枝湯証はすなわち表熱虚証といいます。
 このように熱病の場合の虚実は、体の力と病気の強さの相関関係で現れます。そして発熱の初期では虚実によって麻黄を使うか、桂枝湯にするか分かれるのであります。なお、同じ実証といいましても、麻黄湯証と葛根湯証を比較しますと、どちらかといえば麻黄湯証の方がより実であるといえます。
無熱の病気と虚実
 熱のない慢性病の場合の虚実は、おおむね患者の方だの力によって決まります。そして実証に対しては、大黄などの作用が顕著な薬を用いることができますが、虚証に対しては、大黄などは用いることができませんので、作用のおだやかな薬を用いなければなりません。大黄を用いますと瀉下作用が現れて、虚証の人はそれによってかえって具合の悪くなることがあります。
 なおまた虚実というのは絶対的な決まったものではなくで、麻黄湯証と桂枝湯証のように相対的な区別であると同時に、麻黄湯証と葛根湯証のように段階的な違いでもあります。この虚実の判定は、漢方治療をする上で、熱のある病気でも、熱のない病気でも大変大事な事柄であります。


■熱病の病期と病位
 次に、熱病の場合の病気の時期と、それに関連する病位についての診断を述べます。これは病気の進み方と、それに対応する治療法についての診断を述べます。これは病気の進み方と、それに対応する治療法についての傷寒論の考え方であります。
基本的には、病気はまず体の表面に症状が現われ、次第に体の内部へ症状が侵入すると考えるもので、症状が現われている位置によって病期がわかるというものです。



 先にも述べましたが、風邪の初期に現れる悪寒、発熱、頭痛、脈浮というパターンを表熱証といいます。表熱証の期間は普通4、5日続き、その間に発汗剤を用いて治ればよいのですが、適切な治療をしなかったり、病気の力が強くて、たとえば強い流感などのためにその時点で治療させることができないと、次の時期に移行してゆきます。
 風邪が5,6日以上長引きますと、口が苦くなったり、吐き気がしたりして、食欲がなくなるというような遺障害の症状が加わったり、また、それまで出ていた咳は喉のあたりから軽く出ていたような咳だったのが、胸の奥深いところから出るような形になったりします。このとき患者は、自覚的に李肋部、すなわち肋骨の下の方のあたりが張ったような苦しさを覚えます。また他覚的には肋骨弓のすぐ下に、一種の抵抗と圧痛を認めます。このような徴候を胸脇苦満といいます。またこの時期には熱の型が悪寒と発汗の繰返しになります。
 軽症の風邪などでは朝のうち平熱で、午後になると熱が出るという型ですし、重症の場合、典型的に現れますのは、腸チフスの時のような弛張熱の型であります。こういう熱型を往来寒熱といいます。この往来寒熱と胸脇苦満が現れる時期は病気が次第に体の内部へ侵入しようとしていて、体表と体の中、すなわち表と裏の中間に達したと考えられる時期であります。

半表半裏
 裏とは表に対する部位で内側のことで、表は体表のことであります。この表と裏との中間を半表半裏といい、この時期は半表半裏に病気が入ってきた時期ですので半表半裏証といいます。表熱証では浮であった脈が、半表半裏証になりますと、次第に奥の方へ沈んできて、沈の脈に変わります。また半表半裏証では発汗して体表から病気のもと、すなわち病邪を除いて解熱させるということができませんので、柴胡剤を用いて和解をして熱を下げるという方法をとります。この際も虚実によって柴胡剤の選定を行います。柴胡剤、すなわち柴胡の入った処方には数種類あり、実証の場合には実証に合う処方、、虚証の場合には虚証に合う処方を選定するわけであります。
 さらに病気が治らないで、10日以上経ちますと、病気のもと、すなわち病邪は裏、すなわち体の深部へ侵入します。この時は熱が深部まで入ったために、熱感が強くて、他覚的にも熱が感じられます。これを身熱といいます。すなわち第三者が病人の体に触れてみても、体がカッカと熱いのがわかるという場合であります。
 また汗が全身くまなくにじみ出るように出てくることがあります。こういう場合を潮熱といいます。潮が満ちてくるように全身が熱くなって、全身から汗がにじみ出るという意味であります。


 
 この時期は裏に熱がありますので、すなわち体の深部に熱がありますので、これを裏熱証といい、この場合はすべて実証になります。裏熱証では、腹満便秘する場合と、喉が渇いて非常に水を飲みたがる場合とがあります。この前者、すなわち腹満して便秘する場合には承気湯類を用いて瀉下、すなわち下痢をさせて、腸から熱を取り去るという方法をとりますし、後者すなわち喉が渇く方の形には、石膏という漢方薬の入った処方を用いて、体の中の深部の熱を冷ますという方法をとります。その代表的な処方が白虎湯であります。

三つの腸病

 さて、以上述べましたように熱を感じる場合が、陽証、すなわち陽病であります。これを三つの時期に分けて観察したわけであります。初期の表熱証の時期を太陽病といい、中期の半表半裏証を少陽病といい、極期の離熱証を陽名病といいます。陽明病の時期を過ぎますと、病気はさらに進行して陰病に入ります。陰病につきましては次の機会にお話しいたします。



漢方医学の診断法(2)
  山田 光胤  日本東洋医学会/副理事長

■三つの陰病
 前回お話ししました陽明病は、陽病の極期で、熱が非常に高くなる病期であります。この時期を過ぎますと、体の力が枝大の衰えて、陰病の時期に移行します。この陰病というのはどんな病気か、簡単に例をあげてお話しします。
 風邪を例にとりますと、風邪ひき患者の中には、体温は上がるのですが、本人は熱感を感じないで、寒気ばかりを感じて、手足が冷え、むしろ青い顔をして元気なく寝ている患者があります。こういう病人にはいくら解熱剤を使っても、一時的に体温は下がりますが、病気の方は少しもよくならないで、いつまでも元気が出ないで、ぐずぐずと1ヶ月でもそれ以上も長引いて、病床を離れることができないという病人があることを皆さんはよくご存じだと思います。これが陰病であります。
 風邪をひいて、寒気がして、手足が冷え、体がだるくて元気がなくて寝ている、喉が痛かったり、咳が出たりするというのは、体の表面(体表)に寒があると考える時期であります。これは今まで熱があったのが、体が弱ってきたために次第に体が冷えてきた時期でありまして、これを「少陰病」といいます。またおなかが張って痛んで下痢をする形になることもあります。これは「太陰病」といいます。太陰病は体の中が冷える場合でありまして、裏に寒があるとと申します。
 さらに病期が進みますと、顔だけ熱くなって足の方が冷えてきます。こえは重症の患者が死の一歩手前に現す症状と共通しております。これを上熱下寒といいます。上が熱して下が冷えるという意味であります。この時期を「厥陰病」と申します。
 このように陰病には太陰病、少陰病、厥陰病の三つの時期があります。三つの時期にわけてはおりますが、治療法としては、陰病の際には附子を配合した処方を選定しては体の深部を暖めて体力をつけ、それによって病気を回復させるという共通の方法をとります。以上述べましたように、陽病の太陽病、少陽病、陽明病、陰病の太陰病、少陰病、厥陰病、この六つの時期を一言で三陰三陽と申します。

■漢方の診察法・四診
 さて、今日の主なテーマはいよいよ漢方医学の診察法であります。漢方医学の診断は四診によって行います。四診とは、四つの診察法という意味でありまして、望診、聞診、問診、切診の四つであります。これを簡単に望聞問切といいます。この四診の目的は、最終的には証を決定することですが、その前段階として大事なことが二つあります。一つは陰陽虚実、あるいは寒熱虚実の判定であります。これが正しくできますと、診断はほぼ間違いなく行われるということになります。もう一つは気血水の判定であります。陰陽虚実が病人の条件としますと、気血水というのは病気の原因ということがいえます。気は気滞証あるいは気うつ証といいます。血は血滞証またはお血証といいます。水は水滞証あるいは痰飲証といいます。これらの気と地と水の変化によって病気が発生するということであり、その際にはこれらを解消する薬物をそれぞれ用いるということになります。

望診
 さて、望診についてお話しします。望診というのは望遠鏡の望と書きますように目で見る、視覚によって診察する方法であります。この望診は大変大事なことであり、一瞥して陰陽虚実がわかることがよくありまして、漢方医学は本来そこまで修練をしないといけないわけであります。
 見るポイントは、たとえば顔の色艶、患者の肢体、行動などであります。体骨ががっちりしていて栄養状態がよく、筋肉がしまっている人は実証が多いのでありまして、ふとっていても水ぶとりで色白の人にはかえった虚証が多いのであります。こういう患者には、ことに気虚が多いのであります。こういう患者には、ことに気虚証が多くて、防已黄耆湯という処方を用いますと体がしまってきて、いろいろな症状が改善するのであります。反対にやせていて血色の悪い人は、陰証あるいは虚証の場合が多いのであります。
 顔色が赤味がかっている、潮紅しているのは陽証の場合、あるいは実証の場合が多いのですが、時には虚証の場合と、あるいはお血証があります。実証の赤味は、赤味が強くていかにも暖かそうに感じられる赤味でありますが、虚証の赤味はいわゆる桜色のようなほんのりと赤くなっているような場合であります。このごろは少なくなりましたが、以前多かった肺結核症などのかなり進んだ時期にそういう患者がしばしば見られましたが、これらは実証ではなく虚証であり、体力が衰えている場合であります。また、いわゆる上気をしている顔というのがありますが、これは気が上昇している場合であり、気を引き下げる薬物を使う対象になります。
 お血による赤味は、しばしば毛細管が網目状に目で見えることがあるような赤味であります。皮膚の湿潤、あるいは反対に乾燥している、あるいは涸燥している場合も、証の判定上見逃すことのできないことであります。涸燥している場合は、多くは陰証でありまして、体を温めたり、体に潤いをつける薬物の入った処方を使う必要があります。
 皮膚や南膜に紫色の斑点、すなわち紫斑が現れたり、あるいは青筋が出たり、いわゆる鮫肌が現れるのはお血のある場合であります。
 小児は活動的なのが普通でありますが、あまりおとなしくて、じっとしているものには虚証がよくあります。また乳児は口をききませんが、その様子を見ていかにも寒そうにしている場合には、悪寒のあることが多いのであります。
 次に舌を見る舌証というのがあります。これも望診の中の一部であり、大事な診察法であります。

聞診
 次に聞診についてお話しいたします。耳や鼻で聞く方法であります。患者の音声に力があるかないか、あるいは咳の様子はどうか、乾いた咳か、湿った咳か、あるいはゼイゼイいう喘鳴を伴っていないか、あるいは胃のところで水の音がしないか、おなかが鳴らないかというようなことや、患者の口臭、体臭、排泄物の臭いなどを鼻できく方法であります。

 次は問診であります。これは患者の訴えを聞くのでありますが、ただ、漫然と聞くのではなく、証の判定に必要な事項を医者が十分に知っていなければできないことであります。たとえば、喉が乾くというようなことがありますが、喉が乾いて水を飲みたがる割合にはお小水の出方が悪いというような時には、これは五苓散証ではないかということをピンと考えなければいけないわけであります。大変簡単にまいりますが、詳しいことは何かの本で勉強していただきたいと思います。

切診
 次に、切診とは接触の意味であり、医師が手を直接患者の体にあてて診察する方法で、素人が、いかにもこれこそ診察だと思うような診察法でありまして、それには脈心と腹診が重要であります。

脈診
 脈診はいろいろな方法がありますが、現在ではおおむね患者の橈骨動脈の部位に医者の3本の指をあててみる方法をとっております。脈診の目的は、病位の判断、あるいは虚実の判断、寒熱の判断が主であり、とくに急性病の時に大事であります。この前に話をしました脈の浮沈は大事なことでありますが、そのほかにも大事なポイントがいくつかあります。脈が早いか遅いかというようなこと、あるいは脈が強いか弱いか、大きいか小さいか、また滑らかに脈が去来するか、あるいはスムーズに脈がこないかというようなこと、あるいはどういう状況の不整脈があるかというようないろいろなポイントがありますが、詳しいことは省略します。

腹診
 次に腹診についてお話しいたします。腹診とは腹部診察の意味であります。古代中国系の医学を伝承している国は、東亜諸地域に多くありますが、その中で腹診をするのは日本の漢方のみであります。これは室町時代の末以降、江戸時代を通じて多くの先輩達によって完成された日本独自の診察法であります。内科的な疾患だけではなくて、外科、眼科、耳鼻科、あるいは皮膚科などの疾患でも、漢方では必ず脈診とともに腹診を合わせて行なうのであります。その方法は、患者を仰向けに寝かせて、体をまっすぐ自然の状態にしまして、手をもってまず全体を触診をし、そして要所要所を圧迫したり、触診をしたりしてゆくわけであります。
 この腹診の目的は、主に虚実をしること、あるいはお血の存在を知ること、痰飲(水毒)の存在を確認することなどであります。そして主にみるポイントは、腹壁の状況、すなわち腹部の筋肉の緊張状態をみるのでありまして、現代医学の腹診のように、内臓が腫れていたり、硬くなっているということのみをみるのではなく、もちろんそれもみますが、大事なことは腹壁、すなわちおなかの筋肉にあらわれている全身からの反射の状況をみてゆくわけであります。そしてこの腹心によって得られる腹証にはいくつかの大事なものがありますので、例をあげてお話しをしてまいります。
 初めに心下痞硬というのがあります。心下とはみぞおちのところをいい、そこがつかえて硬くなっている状況をいいます。心下痞硬があれば瀉心湯(半夏瀉心湯、甘草瀉心湯、三黄瀉心湯など)を使う対象になります。
 それに似た腹証で心下痞というのがあります。これはみぞおちのところに自覚的なつかえを感じる腹証で、他覚的に触診してみましても、あまり硬くはなっていない、主として自覚的なつかえであります。これは主に虚証の患者に現れますので、たとえば六君子湯とか、四君子湯というような処方、すなわち先にあげました瀉心湯よりは虚証の人に使う処方を用いて、胃の消化機能を高めてまいります。
 次に胸脇苦満という腹証があります。胸脇はどちらも胸であり、胸が苦しくいっぱいになっているという意味であります。自覚的には胸部の下の方が苦しく、張っている感じがあると同時に、他覚的にみますと、肋骨弓の下で、右あるいは左に腹壁に抵抗が現れて、場合によってはそこを圧迫しますと圧痛を覚えるという状況であります。この胸脇苦満がありますと、柴胡の入った柴胡剤の適応症ににあります。柴胡剤には大柴胡湯、小柴胡湯、柴胡桂枝乾姜湯というようないくつかの処方がありますが、これらをその患者の虚実に合わせて使い分けるわけであります。
 次に心下部(心窩部)の振水音すなわち拍水音についてお話しします。拍水音は胃のある部分、すなわちみぞおちのあたりを軽く叩きますと、水をふるわせるようなピチャピチャという音が聞こえる場合であります。これは西洋医学でも認めてる症状でありますが、漢方ではこれがありますと胃内停水といい、胃の中に水分やガスが溜まり停滞している状況と判断して、停水を取り去る働きのある薬を使うことになります。薬物としては、たとえば茯苓、朮あるいは人参というようなものであります。
 次に小腹不仁という腹証について申し上げます。小腹とは臍より下の部分を指し、不仁とは鈍麻しているという意味であります。臍より下に知覚鈍麻があって、正中に沿って脱力しているというような時は、腎虚、下焦の虚でありまして、八味丸の適応症になります。



漢方治療上の注意
 矢数 道明  東亜医学協会/理事長

 私に与えられたテーマは、「漢方治療上の注意」ということであります。すでに漢方薬の基礎知識、漢方医学の流れ、その他考え方、診断方法などについてはお話がありましてので、漢方医学についての大綱はすでにご存じの方が多いことと思います。私は、一般の臨床医師の方がこれから漢方薬を用いて治療をする場合に注意すべきことの中から、そのいくつかを拾い出して申しあげてみたいと思います。私が45年前に医学校を卒業して漢方の勉強を始めてから、それらの注意を怠ったために失敗した体験などを織り交ぜながらお話ししてみたいと思います。

■漢方医学を学ぶ心構え
 その第1は、西洋医学を学んでから漢方を勉強する時の態度、心構えというようなことであります。漢方医学と西洋医学との違いについては、大塚先生のお話がありました。ご承知のように、東洋と西洋とは地理的な環境、歴史や思想、風俗、習慣などそれぞれの特徴があって、医学もそれぞれ特徴のあることは当然のことであります。このようにして、東洋医学と西洋医学はそれぞれの特質をもって発達してまいりました。その特質の中の一つは、現在の西洋医学はそれぞれの特質をもって発達してまいりました。その特質の中の一つは、現在の西洋医学は、患者の他覚症状を細かに検査して客観的なデータをもって診断し、病名と病態を決定し、治療を行うのが特徴です。その検査方法はまことに微細をきわめております。そして患者の訴えや、非特異的な症状はあまり注意されないようになってきました。ところが漢方では、患者の自覚症状を重要視して、非特異的症状を総合的に観察して、いわゆる漢方でいう「証」を確認して、処方を選択的に決定するのが建前となっております。
 私が学校を出まして、森道伯先生の所に入門を許されて漢方を勉強するようになったところですが、私は漢方治療が、はたして現代医学の検査方法によってその効果が確認できるかどうか、そのもっとも手軽な検査方法として、患者用の便所に検尿の道具を持込んで検査をしてみようとしたのであります。すると、このことがいつか森先生の耳に入りまして、私は大変叱られました。「小便の検査をしなければ治療のできないような漢方医になるならば、今すぐにやめてしまえ」ということで、おおげさにいえばもう少しで破門されそうになったのであります。森先生は、医学校を出た医師が漢方の勉強にまいりますと、まず学校で習った西洋医学を一度きれいに忘れて、白紙になって漢方の修行に専念しなければならないとよくいわれたのであります。
 森先生は若いころ禅僧の僧侶できびしい修行をつんだ方でした。日本で長い間伝統を守って伝えられてきた剣道とか柔道、あるいは茶道、華道、その他いろいろの芸能の道などは、その道の修養をする時よくいわれておりますように、「修」、「破」、「離」という三つの段階を経なければならないといわれております。修は修行の「修」で、師匠の門に入ったならば、まず虚心坦懐に師匠の訓えに専念して修行をつんで、それから「破」というのは、やがてその方を破って独自の工夫をする。「離」というのは、そののちにおいて、その型を離れて独自の境地を開拓するという意味のようで、私たちもそのように師匠から教えられたのであります。
 漢方の勉強を始めて、最初から西洋医学の考え方で検査をしたり、批判的な態度をとったのでは、本当の漢方の修行にはならないということを戒められたのでありました。いつか武見医師会会長が、「東洋医学の人間把握の態度は近代西洋医学と異質的なもので、東洋医学は全人的把握であり、西洋医学は臓器的把握である。それゆえ近代医学の検査方法で東洋医学の成果をことごとく判定すべきではない」といっておられたのは、この間の消息を物語ったものかと思われます。このことは漢方の勉強の態度を述べたもので、検査方法を全面的に否定したものではないことはもちろんのことであります。漢方では陰陽の調和ということがよくいわれておりますが、西洋医学はミクロの医学、東洋医学はマクロの医学で、この陰陽、ミクロとマクロは、大極の世界観では調和するのが自然の姿と思われるのであります。

■漢方薬選品上の注意
 漢方治療上の注意の第2としては、もっとも基本的な素材である漢方薬の選品のことでありましょう。昭和11年、私たちが拓殖大学で日本で初めて漢方医学講座を開いていたころ、柴胡桂枝乾姜湯の「証」と思われた流感や肺結核患者にそれを用いますと、患者は服用後間もなく苦しみ出して、これを吐いてしまって食欲がなくなり、どうしても飲めないという症例が何回か発生いたしました。これは私も大塚先生も同じようなことを経験したのであります。そこで私はある日、試みにこれを飲んでみますと、なるほどとても苦くて、胃にもたれて気持ちが悪くなり、ムカムカとしてとうとう吐いてしまいました。そしてその苦味がいつまでも胃に残って食欲がすっかりなくなったのであります。その後、ちょうど拓大の講座で大塚先生が傷寒論の講義の時、この柴胡桂枝乾姜湯のところでその話をされたのであります。するとその時聴講生の中に長年漢方薬を扱っていた薬局のご主人がおり、「それはおそらく処分の中のかつろ根がないので、薬店が土瓜根を配達したのではないか、先ごろから市場に土瓜根をかろ根と称して出廻っているようだ」ということを発言されました。そこでこれを調べてみましたところ、まさにかろ根ではなく土瓜根でした。
 昔から「薬をうるもの売るもの両眼、薬を用いるもの一眼、薬を飲むもの無眼」という諺のようなものがありまして、薬を売るものは両眼で、二つの目で原料もよくわかっていて、かろ根がないと、それによく似ている土瓜根をかろ根といって売ることがあります。薬を用いるものは薬の専門家でないので一眼で、一つの目しかないので厳重な薬の鑑定や選品がおろそかになりがちで吟味が足りない、また薬を飲むものはまったく無眼で、めくらでありますから、そのまま飲んでしまうということで、そのころ私たちも、一眼しか持っていなかったための失敗でありました。
 生薬の原料の場合は、その色や、硬さ、臭いや味を試みますと、かろ根と土瓜根の見分けはすぐにつきます。かろ根の味は淡白で、少し甘みがあり、土瓜根は実に不快な苦味を持っています。それがいったん製剤となってしまいますと、その比較ができませんので、どういう材料を用いたかわからなくなります。それゆえ製剤の場合は、十分な経験のある、両眼をそなえた専門家が立ち会いのもとに原料を鑑定して製剤化する必要があると思われます。かろ根と土瓜根の相違を表にしますと表1のようになります。

■煎じ薬を作る時の注意
 第3に、煎じ薬を作る時の注意について述べたいと思います。『傷寒論』や『金匱要略』、その他の医書も同じですが、処方された薬を煎じる方法、その飲み方、服用後の注意が実に懇切に書かれております。これは長い間の経験から指示されていますので、、できる限り記載通り守るべきであります。一つ二つ例をあげてみますと、もっとも頻繁に使われている小柴胡湯でありますが、一般には便利な方法として、1日分に水600ccを加えて300ccに煮つめ、3回に分けて服用していますが、『傷寒論』の指示によりますと、水600ccを加えていったん煮て300ccとして、それからカスを去って再び火にかけて150ccに煮つめ、それを3回に分けて服用すると明記されております。
 これも戦前のことでありますが、私の懸意な方が非常に高い熱を出して、一週間も熱が続いて、病院では腸チフスの疑いがあるとのことでした。私はその時往診して小柴胡湯の証として便法の煎じ方をして与えたのであります。患者は初めて漢方の薬を飲むので、苦いとか量が多いとかいってなかなか飲まないのでした。そこで『傷寒論』の指示に従って煎じさせましたところ、分量は半分となり、今度はとても飲みやすくて、飲んだあと気持ちがよいといって進んで服薬しました。この患者はあと3日熱がさめなければ伝染病棟に入院させるといわれて大変困っていたのですが、幸いなことに3日目の朝平熱になりましたので、大変喜ばれたことがありました。
 また感冒の薬として知られている葛根湯も、『傷寒論』では、まず葛根と麻黄の二つを600ccの水に入れて、火にかけて450ccに煮つめ、上に浮かんだ白い泡を取り去ってから、他の薬を入れて200ccに煎じつめることになっております。このように指示された通りにしますと、まことに飲みやすいばかりでなく、不快な副作用らしいものが現れず、よく効果が現れるもので、その昔よくここまで工夫されたものと感嘆させられるものであります。漢方薬の煎じ方、飲み方、服用後の注意などはできる限り、特に急性病の時は古典の指示を守るべきものと思われるのであります。これは煎薬の場合の注意であります。

■漢方薬の「修治」ということ
 注意事項の第4として、薬の「修治」ということがあります。古い医書の処方には、いくつかの薬物の下に「皮」を去るとか、「芯」を去るとか、「節」を去るとか、「炙る」とか、「炮ずる」、すなわち加熱するという注意書きがしてあります。漢方では、これを「修冶」を施すといっておりますが、これも大変重要なことで、注意を要することの一つであります。麻黄の節を去るとあるのは、よほどの篤志家でないと今日では実際には行なわれていない現状ですが、その通り実行すると効果が一層よくなるものであります。麻黄の節のところや根には、汗をとめる作用があるといわれておりまして、それゆえ節を去りますと発汗作用が顕著に現われるものでこの指示に従うのが建前であります。
 また附子ですが、附子はヤマトリカブトの根で、漢方薬の中でもっとも毒性の強いものとされております。いわゆる猛毒のアコニチンが含まれており、漢方では附子のところに必ず「炮」という字がつけてあります。これは濡らした紙に包んで熱灰の中に埋めて加熱して、アコニチンの毒性を何百分の一、何千分の一に滅毒させて用いているのであります。この加熱という修治、すなわち理化学的操作をせずに、とくに粉末にしている時は恐ろしい中毒を起こしますので、もっとも注意しなければなりません。煎じるときは加熱によって毒性が少なくなります。
 それは昭和7年5月30日のことですが、日本の植物学者として世界的に有名であった理学博士の白井光太郎先生は、『金匱要』略の天雄散という附子を含む

















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