平成版、漢方医学


平成版・漢方医学を学ぼうとする人へのメッセージ
 京都府立医科大学東洋医学講座
   三谷 和男

  はじめに
 一般に、現代の日本の医療機関では、患者さんと接する場合、あまりにも「身体的な病気」のみに注意が向けられていて、その人が社会的な存在であることや精神的な苦しみがどうなのかに無関心なことが多いようです。疾病について語る場合、生物学的な観点から説明するのが一般的ですが、社会学的な観点からの追求が不十分なことが多いようです。患者さんを「社会的な存在」とみることは、東洋医学の優れた視点です。では、どうして「身体的な側面」に相当の比重を置く西洋医学が重視され、東洋医学の良さがみえなくなっているのでしょう。その遠因として、明治以降の医療制度(医学教育も含めて)の歪みが考えられます。あくまでも「西洋医学の枠組みの中での東洋医学」であるからです。西洋医学の歩みは、科学(サイエンス)としての基盤をもち「個を知らずして全体像は把握できない」という考え方です。確かにそれはそれで一面の真実です。しかし、こういったやり方で認識された「個」を、固定化したもの、静止しているもの、独立したものとされてしまうわけですから問題は生じます。なぜなら、人間はいつも「動的」な存在だからです。一つの地点には留まってはいません。東洋医学はどうでしょう。個々の分析よりも結合、つまり「全体」がまずどうなっているのか、をつかむことから治療がスタートします。これが「証の把握」ですね。私たちが患者さんといろいろなお話をしながら脈を診(み)、舌を診、おなかを診るのは、「患者さんの証をつかむ、漢方的に理解する」ためです。いずれにしましても、「個」も「全体」も共に患者さんを治療していく上で決しておろそかにしてはいけませんが、東洋医学を志す私たちはまず「全体像」をしっかり見据える必要があります。本論文では、なぜ今、漢方医学を勉強する必要があるのか、漢方医学を見直すというのは、どういった立場からなのか、を明らかにしてゆきたいと思います。患者さんは決して神秘的なものを期待しているわけではありません。私は、近代西洋医学の背景にある三段論法哲学を考え、その機械論的思考を検討し、「患者中心の医療」という考え方に基盤をおく医療を追求する立場を明らかにする中で、長い歴史の中で検討され続けた漢方医学を見直すことができると考えています。

  病(やまい)とは
 漢方医学も西洋医学も、その目的は、まず目の前の患者さんを治療することであり、疾病の再発を予防することです。では漢方医学的に、病(やまい)はどう捉えられているでしょうか。病は、生体と環境との不調和より引き起こされた生体側の反応であり、これを「陰陽の不調和」と考えています。しかも、生体は環境に対し常に適応を試みています。しかも、生体は環境に対し常に適応を試みています。つまり、私たちが捉えている諸症状は、外からの攻撃(これを外邪といいます)に対する防禦反応を理解されます。病態生理学的には、疾病はそれぞれの病因に基づき、その病態が一つ一つ説明されていますが、本質的な問題に加えて二次的な要因が必ず絡んできますし、複雑な相対関係の中で発生機序がより明らかにされていきます。メタボリックシンドロームの概念は、少し前までは個々の疾病(高血圧症、高脂血症、動脈硬化症、肥満等々)の羅列に過ぎないと批判する先生方もおられましたが、今はそういった疾病に共通する背景は何か、が真剣に考えられています。疾病の原因は多岐にわたるのが普通です。ただし、先に述べましたように、感染症をはじめ、多くの疾病には外邪が原因と考えられることには異論はありません。古代中国では、こうした観点で「上工は国を治し、中工は人を治し、下工は疾を治す」という思想が生れたと理解されます。また、伝説的表現ですが、古代中国の医には「巫医」と「疾医」に区別されています。巫は現在理解されているような「巫女」の概念ではなく、むしろ中央集権体制下の王の指導者あるいは助言者としての意味を含むと考えてみますと、疾病の主因として「時の政治」にまで言及されていたことが十分予想されます。もちろん太古の医療は、きわめて素朴なものですから、霊感的な治療法あるいは精気論的な巫祝療法が広く存在していたことも否定できません。さて、古代中国においては、疾病がどのような機序によっておこるかについて、黄帝内経「素問・繆刺論」には次のように述べられています。「人体に異常を起こさせるような邪気が、人のからだに侵入して病をおこすにいたる経緯を仔細に検討してみるに、邪気が一足とびに内臓にとびこむわけではない。生体の有する自然防護力とたたかいつつ、逐次内部に侵入するもので、まず最初は皮膚に入って、そこで一休みすることを余儀なくされる。ここで生体の自然防護力にあい、その行動を阻止される。この際、自然防護力の力が強いときには外邪は退却するが、これと反対に、外邪の勢い盛んにして生体の防護力に勝つときは、邪は前進して孫絡に侵入する。ここでふたたび生体の防護力に阻止されて、そこにひと休みすることを余儀なくされる。ここでまた両者のたたかいとなり、邪が勝つときはさらに前進して絡脈に侵入するが、ここで三たび生体の防護力に阻止されてひと休みすることを余儀なくされる。このように、つぎつぎと作用する生体の自然防護の阻止とたたかいつつ、これに勝ときは終に経脈に侵入するようになる。経脈には、ある一定の作法にしたがい、経気が流主しているので、ひとたび経脈に侵入した邪は、その流れとともに経脈内を移動して五臓に達し、その組織内に喰い入るが、一方、邪の一部は経脈の流主に関係なく各所から分散して胃腸に侵入するのである。こうなると生体の機能を司る陰陽の一グループは、ともに大なるショックを受けて陰陽の機能はその平衡を失い、その結果、五臓は傷れて病体となり、胃腸はその機能が低下して食欲の減退を起こすのである。以上が、邪が皮毛に入ってから最後に行きつくまでの概略の順序であるが、邪がこのような順序を経て経脈に入り、さらに五臓に入って、その結果、五臓傷れて病体となる。このような病変を正病というのである。・・・
 ところが疾病には、このような一定の経絡に従うことなく起こるものがある。それは、前述のように邪が皮毛即ち皮膚に入り、さらに侵入して孫絡に一休みすることを余儀なくされているときに、生体の自然防護が旺盛のため、経脈に通ずる路が塞がれてしまうことがある。こうなると、邪がこれを通りぬけて経脈中に入ることができないし、といってまた後退しようともしない。そんなときには、邪は大絡に横すべりして、はいりこみ、たちまち大絡を充満してしまう。その結果、生体は病状をおこすもので、これを奇病と名づけるのである。この場合には、痛みその他の病状が、邪の客している位置とは反対の側に現出されることが多い。
 さて大絡にすべりこんで、そこを充満させてしまった邪は、あらあらしく、迅速に、注ぐように、あるいは右にあるいは左に移動する。このような邪気の行動は、生体中を整然と流注している十二の経脈を上下左右あっちでもこっちでも、ぶつかり合いつつ、だんだん分散して手足の末端にむかい、体表に広くひろがりつつのびていくのである。・・・」
 こうした古代中国における疾病の機序は、現在においても比較的素直に理解されるものですし、疾病の要因として外邪を考えていることは、傷寒論医学の思想と大差はありません。なお「巫医」の概念は、やがて「食医」および「陰陽師」に変化したようですが、ここでは省略します。



    疾病の治療
 疾病の治療は、一般的に対症療法(標治)と原因療法(本治)に大別されています。現在、大半の感染症は、抗生物質あるいは抗ウイルス剤によって、治療効果はほぼ一定していますし、患者さんにとってもある程度は満足すべき状態であると評価されています。したがって、こうした感染症に対する治療法は原因治療とよばれ、今後もこうした治療=抗生剤(あるいは抗ウイルス剤)の開発に向かっていると考えられます。しかし、こういった治療が本質的な治療といえるでしょうか。一般的に感染症の原因は、単純にParasiteと考えられる傾向にあります。しかし、これだけで疾病が解明されるでしょうか。ペッテンコーフェルの例をとるまでもなく、それは否でしょう。
 さて、漢方治療が見直された要因を単純に考えてみますと、西洋医学的治療だけではなかなか好転しない慢性疾患に対して、その有効性が評価されてきたことといえます。患者さんは、「確かに効果がある」ことをもっとも期待するわけです。西洋医学が、病理解剖学的な特定の病巣に対する局所治療に力を発揮するのに対し、漢方は常に全身的な観点で、個人の治癒力を促進させようとする働きをもっています。漢方が、補完代替医療として位置づけられるのは、ある意味で近代西洋医学の欠陥を補うと考えられているからです。しかし私は、近代西洋医学のもつ方法論に対する検討から漢方を見直そうと考えます。こうした観点なくしては、これからの漢方はいかにあるべきかという命題に答えは出せないのではないでしょうか。私は、患者さんのためによりよい医療をつくっていこうとする姿勢が、漢方を見直す立場につながると考えています。そして、ここから西洋医学と東洋医学の正しい結合、新しい医学の創造につながっていくものと確信しています。



    漢方治療
 漢方治療は、具体的にはどういうものでしょう。このことを明らかにするためには、まず漢方医学の病理観あるいは薬能(薬理ではありません)の問題に触れるべきですが、端的に「随証論治」あるいは「弁証論治」といわれていますように、患者さんの陰陽・虚実を明らかにして(これを証といいます)漢方が決定されていきます。このことは経験的、類推的、直観的見地から考えられた漢方病理観(その代表的な見解として気血水論があります)に基づいて漢方医学が形作られているといえます。気血水の概念については、古方派の吉益南涯の気血水弁より引用しますと、次のとおりです。

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